人は目に映るものが全て。 [生活雑感]
極論な。
と思うのは、庭で仕事していれば、庭の植物の状態が気になって、ああなんて美しく咲いているのかしら、とか、あれ?この葉っぱが丸まってるのはなんで?虫害?とか、この部分がイケてないんだけど、なんとか改善するにはどうしたらいいかね??とか、庭のことばっかり考えてしまう。
そして、部屋で仕事をしていれば、片付いていない箇所やら、床の埃やら、色々気になってしまい、結果として、最近すごい掃除している。
掃除するのはいいことなんだけど、掃除して、片づけて、、そんなことに結構毎日時間を割いている気がするのだが、その割に、いつまで経ってもさっぱりしない。
これは一体どういうことだろうか?
しかし、とにかく本棚を買った。
どうにもこうにも、本をイイ感じで収納できるスペースに限界を感じ、やっぱり餅はモチ屋じゃないけど、本は本棚だな・・と今感激している。
なるべく本を買わないように、増やさないように・・と心掛けているのだが、限界があり、どうしても少しずつ増えてしまうのだが、ああ自分の中身ってこんな感じなんだ、と自分の構成要素が本棚で丸わかりになる感じ。人間性がにじみ出てしまう。
でも、ああこうやって私は生きてきたのだなあ、昨今・・と本棚を眺めてしみじみする。
色々と忘れがちなことが、本棚として、目に映るところにならべられることはいいことだと思う。
私はこんなことを学びたかったんだ、こんな生き方をしたかったんだ、こんなことに興味があったんだった、、こんなことを懸念してたんだった・・・日々に没頭していると忘れてしまう、すべてがそこにある。
美しい花とどんどん大きくなる新芽に囲まれていると、楽園に生きている気がするし、幸せを実感するし。
と思うと、やっぱり見た目というのは重要だ。
鏡に映る自分がとりあえず実態はどうであろうと、それなりにイケてると自分で思えれば、そこに救いは発生するが、どうみても冴えない中年がいたら、それは目をそらせない現実だ。
最近の私の腰回りが、急激に中年づいていてやばい。極楽在宅勤務様のせいだ。
それと、とにかく家で働いていると、家が世界のすべてになりがちで、部屋と庭と、そればかり見ているから、そのなかのことばかりよくも悪くも気がいきがちで、家にいるから、ゴミも良く出るし、髪の毛もよく落ちるし、パンくずも落ちがちだし・・掃除もしたくなる。
箱庭的な・・・自分のための、心地よい世界の構築、最適解を自分でつくれるんだから、楽しめばいいさ。
でもそれで1日が終わってしまうことがないように、外の世界とつながる、外の世界のためのアクティビティにもちゃんともっと時間を割きたい。
2021年の抱負、第二弾。 [生活雑感]
私はここ3年くらい、結構苦しい時期だったと思う。
それをやっと抜けた。
いや、今でもまだ安心はできない。
ただ、抜けたと思っている。自分では。
だからこそ、こんなふうに改めてちゃんと今年の抱負を考えようと、自分を直視できるようになっているのだ。
ここ数年、新年の抱負を持つことさえできなかった。
最近、リモートワーク復活して、オンオフの切り替えがとても大事だと思いつつ、なかなかに難しいことを痛感している。
切替には儀式が重要だ。
一番いいのは、外に出ること。やっぱり場が変わらないと気分が変わらない。
昼休みは、スーパーでも、花屋でも、図書館でも、公園でも、なんでもいいから外に出ること。
そうしないと、張り詰め続け、思考は回り続け、オンとオフなく時間が過ぎていき、肩こりが酷く、心も体もアンバランスな状態に陥る。
そして仕事が終わったら、やっぱり外に出るのがいいが、それが面倒な時なら、風呂に入るとか、化粧を落として部屋着に着替えるとか、とにかく「はい、終わり!」という線引きをするのが大事で、最近はそれにワインやビールを導入し始めていて、どうなんだろうかと思う。
だが、とにかくオンオフをきっちりわけることが、これからも病まずに走り続けるペース配分としてとても重要だと思う。
で、最近、NETFLIXのムーミンのシリーズに瞑想効果があることを発見した!
仕事のあと、プライベートに戻るためのカームダウンに、ムーミンは使える!!
なんてことないストーリーなのだが、映像が美しく、心が癒される、世界観。
さて、そんな中に、ティーティーウーというキャラクターが出てくる。
彼は旅の途中のスナフキンに話しかけ、ティーティ=ウーという名前をつけてもらいました。やせっぽちで自分に自信がなく、おどおどした性格でしたが、名前を得たことによって意識が変わり、自分の人生を精いっぱい生き始めるのでした。
ということだけど、私はその彼の「こんな素敵な名前をもってる僕なんだから、おうちだって素敵にしなくちゃ。やることがいっぱい!ああ忙しい!」という感じのセリフにハッとした。
まあ今はやりの自尊感情の話に間違いないんだけど、結局、自分なんてゴミだと思っている心もちだと、セルフネグレクト的になるというか、自分なんて所詮この程度、というのが部屋なり生活に出るのだろう。素敵な自分のためには、努力ができるのだ。そして愛する自分のための人生は、自分にしてやることがいっぱいあって、決して退屈することはない。
抱負が持てる、というのはそれに似ている。
腐った心持ちだと、ケッという気持ちに邪魔されて、なんとかポジティブな希望をもって道筋をたてようにも、出てこない。心の中にその糸口を探そうにも、苦しくなってしまうのだ。
さて、自分の過去の抱負を読んで微笑んでしまった。
今年の1月は苦しかった、苦し紛れに、なんとか抱負をひねり出そうとしてるけど、失敗してるのが、読んで笑える。
でも、2016年とか2017年は、それよりは人生が充実していたのがわかる。
が、とんでもなく、自分のままで笑ってしまう。
俺らしく自由に生きていけますように。
という祈りは、今も変わらない自分の核にあるところなのだと思う。
まあ、それが今だってうまくできていないから、いつだってうまくできていないからなのだが。
でも今の私はそこまで息苦しくない。
淡水魚のくせに、海に押し流されがちだとしたら、今は、素敵な湖を見つけて辿り着けというわけではないけど、河口から川上に向かえているように感じてる。
で、そんな私が生きていくために、やっぱり去年出会った坂口恭平イズムをいつも心に、決して忘れないことだと思う。今年の抱負はそれだ。
もう普通の人として成功しようとは頑張らない。
とにかくバランスをとって、楽しく幸せに生き抜けるシステムを生活に築くのだ。
坂口恭平イズムの中で私がこれぞと思ったことは以下の2つである。
1)流れ続けること。決して澱まないこと。人に何かを与え、人から何かをもらい、そういう流れがあることがとても重要なことは、コロナの日々で余計に思う。
2)そのために、というだけでもないが、とにかくウンコを毎日出すつもりで、どんなクオリティでもいいから自己表現、自己発信をし続けること。とにかく吐き出して、苦しくならないための一つの手段。
ほかにもいろいろあった気がするけど、忘れた。
とにかく苦しくなったら、特に、坂口恭平的なやり方がこの世にあることを思いだすのだ、というか、一家に一冊、目につくところに本を買っておいておこうではないか。
そして、私はどんなに新しい組織で、心地よくやっていけそうな気がしていたとしても、片足は坂口恭平イズムに突っ込んで、そんなバランスで生きていこうと思う、それこそが心地よい自分らしい生き方な気がする。
どんなに新組織が、誇り高き変人の集まり、のような、私の心を癒しかけている存在だとしても。
組織は組織だ。
2021年新年の抱負。 [生活雑感]
今年に入ってから、抱負くらい考えないとなーと頭の隅で思うことはあるんだけど、ずっと自分と向き合うことから逃げてきた。
10月、11月、12月半ばくらいまでは、まだ計画していた自分がやりたいと思っていることを推進させている側面も生活の中にあったんだけど、ちょっとずつ「やりたくないこと」「こんなはずじゃなかったこと」に生活の主要な時間をつぶされていき、そして何がやりたいのか、何がやりたかったのか、段々見えなくなって、さらに、なりたいものになる、やりたいことを実現させる気力や自信がどんどん失われて行って、視界がふさがれていって、何も見えないし、何もやりたくないし、ただ息苦しい・・という感じになってきていた。
なんでこうなったのか。
もちろん自業自得で、自分で自分の首を絞めるような行動を日々積み重ねた結果だろうし、私にはいつもそういうところがある。
望んでいないものになろうとして頑張ってしまい、どんどん心と生活が乖離していき、一体自分が何者なのか、何のために生きているかわからなくなる。
そうなりがちなのは、私という人間が、理性的であり、安パイ思考であり、だけどその生き方では息苦しくなってしまうタイプの人間だからである。
いや、みんな多少の息苦しさはあると思う。
たとえばよ、社会的に良しとされているし、それが一番生きやすいし有利な生存戦略だしってことで、その型にはまって生きるという場合。
そういう生き方が生来の特質にあっていて、違和感も抱かない、むしろしっくりくる、というタイプの人もいるのだと思うが、しっくりきつつも、イラついたりムカついたりしながら生きてるケースも普通だと思う。
だけど、私はそれを超えて、生きてはいられない、死んだほうがまし、アイデンティティを見失うレベルになる。
まあでも私は人生で何度も何度もこの過ちを踏みまくり、だからこのブログのタイトルも自戒を込めて、
何があっても判断をまちがうんじゃないよ、ということで「マブい車に乗れ」なのである。
それはつまり、どんなに生存戦略として利口に思えなくても、燃費が悪く、バカっぽく、すぐ壊れても、
実用的だけどときめかない車じゃなくて、ときめく車を選ぼうと、そうじゃないと後で気持ちが苦しくなって結局この車じゃない、ってなるのが私だから。。
本音が介在しない、本心では全く心がときめかない方向性に邁進してるからこそ、そんな自分を直視できなかった。
生活のために、金のために、社会的地位のために、魂を売るところだったぜ。
まあ、何か少し視界が開けたから、何かずっと張り詰めて息を殺している段階から、ほっと一息はけるような何かのきっかけがあったから、今私はこういう時間をとる気持ちの余裕を取り戻したんだと思う。
それは社会生活において、すこし自分を認められるような、自分のアイデンティティを取り戻す瞬間があったからかもしれない。
プラスのフィードバックがほぼない日々の中で、私なんてダメだ・・・という気持ちに沈んでいるところ、久しぶりに自分が優れている部分に光が当てられて、すごいすごい!と言ってもらえて、そうだった私はダメなようでいて凄いところもあったんだった、だから生きてこれたんだった、というように、それで少し血の気が戻ったような感じもある。
そうやって少し血の気が戻ったところに、逆に「お前ごときが」みたいな、ちょっとバカにされてる?という言動を二、三聞かされて、ここでくたばってたまるか!見ておれ!と、すこし発奮した部分もある気がする。
で、つくづく思ったんだが、まず見た目に妥協しないことって大事だなと思った。
服装や髪型で自己表現するのは稚拙だ、という考え方は私の中にもあるが、それでも、結局私がそれ以外の部分で自己表現するのが不得意なら、そういったものも動員するべきだと思う。
使えるものは全部使うのだ。
年取れば余計って部分も逆にあるしな。
身づくろいに気合が入ってない人と、入ってる人で、「私はそこらのモブおばさんです」っていう扱いを良しとする人柄なのか、そういう表現にもなるわけで、まあ衣装が鎧って状況は私は好きじゃないけど、鎧でもあり、表現でもある。
SNSで自分がどんな人間か、何ができるか発信するとかは・・もちろん今の時代重要なんだけど、あざとくなったりして、食傷気味になりつつもあり、あまり前向きになれない時期。
だが、とにかく生身の自分じたいだけでも、どういう人間でいたいのか、どういう人間だと思われたいのか、それを表現していくことは、死んでないって意味で、生きているっていう意味で重要だ。
こういうところ、結局のところ、丁寧に生きるということだと思う。
私は別に、足るを知らない人間じゃない。
自己満足できる人間だ。
その自己満足できるものの確度を生活の中でもっとあげていく。
まずはそこだ。
面接の後、毎回自己嫌悪で死にたくなります。 [生活雑感]
ああもうやだー、恥ずかしい、もったいない。死にたい。最悪。ギャー。。
とさっきから一人でうなっています。
またもや、せっかくチャンスを頂けたのに、ものにできなかったからだ。
行きたい企業の一次面接。
時々、奇跡のように、何かを勘違いされたのか、書類が通ることがあって、面接に呼ばれることがある。
基本的に、こりゃあ行きたいぜ!という会社にか応募していないのだが、その中でも今回はマジっすか、という素敵な企業さんが。
だけどさー、やっぱりビビりなんだな、私って。
ビビるからこそ、なんか逡巡しちゃって、なかなか面接準備に手をつけられない。
その結果、準備不足がひどいったらありゃしない、という状況に。
ひどいなー、どこの会社だって、だいたい成功体験きいてくるし、自己紹介もしろって言ってくるのに、どうして準備しとかないの?
ほんと最悪。
死ねばいいのに。
また1時間後に違う企業の面接。
ここはそんなに行きたい会社じゃない、まちがって応募しちゃった系。
だけど、ここだって、時間さいてもらってるし、自分も時間さくんだし、がちんこで気合いれて臨もう。
面接の練習にもなるし。
あーひどかったな。今日のは。
大体相手が優秀そうだと、びびってしどろもどろになるという自分のふがいなさもあるし、面接というものが久しぶり過ぎて、なんか調子狂うというのもある。
とにかくひどい。
やっぱり自信のなさが露呈してしまって、卑屈に不必要に笑ってしまったのもよくなかったなー。
女優になり切れ!!
私なんて、この企業に釣り合わないなあ、記念受験だなあ、という自信のなさがダダ洩れだったよ。
あーもう、なんだよ、面接ってさあ、通るためにあるもんじゃん、落ちるためのもんじゃないよ、時間の無駄だよ双方の。
くっそー、何回こういうミスをすれば気が済むのよ!
今回はダメなパターンの面接だった。
その昔、私は面接に落ちまくるタイプで、その後ある1社の面接がきっかけに受かりまくるようになったんだよね、新卒の就職活動のとき。
今回はダメなパターン、昔に戻ってしまった気がする。。。
やっぱり、正直にというところもあるけど、女優よってとこも大事だと思う。
自信なさげはいかん!
虚勢だとしても、余裕をにじませろっ!
さあ準備するぞ、次々。
長い旅の果てにたどり着いた境地。 [生活雑感]
TOKIO HOT100を熱心に聴いてたのは、高校生の頃である。
それから四半世紀近くたって、今またよく聴くようになった。
今も昔もクリスペプラー。番組の雰囲気は全く変わってない。
「笑っていいとも」もなくなった今、奇跡のようだよなー。
今となっては、RADIKOでいつでも聞けちゃうのはもちろん、TOP100をホームページでチェックできちゃったりするのもすごい。
ただ時代は変わったな、と思うのは、NO.1がBTSという韓国グループだったりすることだ。
しかもbillboardのランキングもホームページで見れちゃう上に、billboardでもBTS1位なの!
すごいな、時代は変わった。
だけど最初K-POPと知らないで聴いたから、普通にアメリカかイギリスかなと思ってしまって、その直後にK-POPとクリスペプラーに明かされてそうなの!とびっくしたくらいの、ユニバーサルな音楽性と英語ボーカルだもんな、この曲Dynamite。
エドシーランのShape of youとか、テイラースウィフトのShake it offとか見たいな、超ポップでキャッチ―な曲。
まあでも江南スタイルもbillboard2位を記録したということだし、よくできたキャッチ―な曲というのは世界に通用するんだな。
ちなみに江南スタイルが流行っていた当時、私はフィリピンにいたんだけど、まあ耳から支配されるっていうくらいに、永遠に江南スタイルがどこに行ってもかかってたよ。しかも結構長い期間・・・。
Shape of youの時代はバリ。こちらもバリで永遠にかかっているイメージ、しかも数年に渡って・・・。
話が長いという欠点。 [生活雑感]
私の話は長い。
認めよう。
このブログが証拠である。
放っておけば、連想で思いついたアイディアをすべてメモらずには気が済まなくなるタイプ。
「冗長になって、結論までが長い」、と面接官に指摘された。
図星。
プラスに考えれば、クリエイティブなのかもよ!?と思うし、そういう思考パターンを全否定はしないけど、そんなことよりも大切なのはコミュニケーション!
コミュニケーション能力って、難しく考える必要はないとふと分かった気がした。
話が明快で分かりやすい=つきあいやすい=コミュニケーション能力が高い。
そう言えると思う。
相手の感情を害さないように上手に伝えるとか、否定的な言い方をなるべくしないとか、共感を示すとか、色々とあるけど、それは二の次でいい。
そう確信した。
だって自分がそうだからな。
話が長い人、苦手。いつも内心イライラしちゃう。
Youtubeとかを見ていても歴然。
やっぱり芸人はすごい。キングコング梶原とか、対談とか本当に進め方が的確だし、話がわかりやすい。
それがセクマイ系youtuberだと、中にはすごい人もいるけど、やはり一般人というだけあって、説明がなさすぎる人、どうでもいい部分の話が長すぎる人とか、ひどすぎる人は散見される。
例えばかずえちゃん。
ついに元カレ登場!という打ち出しなのに、登場はさせたものの、名前以外は一切紹介せず、カメラからもずっと見切れっぱなしだし、かずえちゃんがひとりで話してるだけで、動画終了。
ひ、ひどすぎる。。
出したからには、少しは彼に華を持たせてやれよ!
視聴者も肩透かしだけど、なんか彼に対してとても失礼な感じがした。
それはインフルエンサーとして著名で、渡辺直美の友人としてインスタによく登場する人物として有名なジョージルートをかずえちゃんの番組に登場させた時もそう。
対談という形式で、ジョージルートをフォーカスした動画なのに、ほぼかずえちゃんが一人で話しまくって終了。
「アメリカで同性結婚をされてるジョージ君です、そのことを中心に今日はお話を伺いたい」で始まる対談。
それはいい。
でも一つ目の質問が「アメリカで同性婚が合法化されて10代の自殺が減ったらしい。どう思いますか?」。
「いいことだと思うよ。」
「つまり・・結婚するしないは個人の自由だけど、結婚できる選択肢があるのは、いいことだと思うよ。」。
それで動画は終わり。
ひどくない?
何がどう酷いかというと、なぜ個人の話をすっ飛ばして、その一般論的な質問にいったかということ。
とても不自然な構成で、強引。インタビュアーが答えてほしい答えをあらかじめ用意していて、その通りに答えてもらいたい、というパターンの質問だよね。
だから回答もなんか、めんくらった感じで「いや、いいことなんじゃない」という感じのものしか出てこない。
「ご結婚されてどうですか」とかフラットな質問をいくつかしてからにすればいいのに。
しかもその回答に対して、色々と想いを連綿と語り続けちゃうのはかずえちゃん。。。
そしてかずえちゃんがほんとーに話が長いんだよねえ。
そんなわけで、この一問一答で対談が終了したのだが、ほぼかずえちゃんのひとり語り。
というわけで、いくら志がよくて感じがよくて、ゆっくりはっきりわかりやすい言葉で話しても、話が長いというのは、大きなマイナス。
すべての局面で損しちゃうよね、と我が事として痛感しました。
それでもまた記事は長くなったけど。。。
直す。本気で直そうと思う!
まずはブログから直す。
派生して言いたいことがいっぱい出てきてしまったら、エントリーをわけるわ。
文学として成立しているということ? [生活雑感]
面白い体験をしたので、それを小説にしてみたいなと思った。
ただ私は別にお話づくりをしたいとか、お話づくりに才能があるタイプではない。
だからノンフィクションとしたほうがいいのかな?
いやノンフィクションだと、もっと社会性が強い、社会に影響を与えるテーマじゃないと成立しなくない?
そんなことを思いながら、公募ガイドを読んでいたら、公募小説の多くは、まず文学として成立してないものが多いという選考者の話が載っていて、
文学として成立しているってどういうことー!!!???
と、頭を抱えてしまった。
自分が書くとなるととても無理だ。
だけど、すごい漫画を読んだ時とか、すごい歌詞とかにたいして、もはや文学だ!とかよく思ったことがある気がする。
たとえば確かに又吉の漫才とか文学的だなーとか、詩的だなーとか、昔から、芥川賞を取る前から思っていた。
まあでも花火はあんまり好きじゃないというか、これで芥川賞?と正直思ったけど。
でも彼が文学的なセンスがあるのは、むしろ漫才というかコントでは、光ってみえてた。
しかしながら、私がブンガクだ!と言ってるのは、なんなんだろうな?
それはただ私の感覚に訴えかけてくる何かがある、ということなので、基準をクリアにするのは難しい気がする。
琴線に触れるかどうか。
さて今日聴いていたのは、Indigo la Endという、ゲスの極み乙女のあいつのもう一つのバンドのほうを聴いていたのだが。
ゲスのあいつは、やはり文学のセンスがあると思う。
ゲスの極み乙女という、奇をてらったバンド名とか、もうイカニモで、出てきた時には反感を感じたし、あの声や歌い方もカンに触ったけど、それでも悔しいことに本物なんだろうなあ。
音楽も歌詞も、廃れない、あきない、オリジナルで心に刺さる。
私個人の過去の忘れてた感情をエモーショナルに活き活きと思い出させてしまう、音楽の魔法が有効なんだよな。
なんてつらつらと考えていたけど、やっぱりゲスといえばベッキーのイメージがついてしまったので、
ゲスの恋愛の歌詞を聴いていると、ゲスとベッキーはいったいどういうことだったんだろうねえ?と他人ごとながらおせっかいにふと思ってしまったりする。
別に何も知らないので、何も憶測はできないので、「どうだったんだろうねえ」以上のことは何も思いうかばない。
そして、ただふと思い至ったんだよな。
結ばれなかった恋のこと。
おそらく本物の恋だったんだろうな、という他人の絶頂期の恋のこと。
たとえば貴乃花と宮沢りえ。
たとえば浜崎あゆみとV6の長瀬。
または中谷美紀と渡部篤郎。
そこに何があったかしらないけど、他人の絶頂期を勝手に外野が決めるとしたら、そこだったんじゃないか?
そこで結婚すればよかったのに、と思った。
後日うまくいかなくて別れることになったとしても、やっぱり結婚すべきだったんじゃないかと。
と思ったのは、まだ若くて無垢なうちの大恋愛って、やっぱり尊いな、と私は今年を取って思うのだ。
誰もわからない、それが正しい選択かどうか。
その時には。
わからないけど、信じて飛び込んでいけるパワーが若い時にはあって、その無謀さが無敵が尊い。
さてそんなものが私の人生にはあっただろうか、とつらつら考えていたら、まさにあそこだったな、というタイミングがあったことを久々に思いだした。
後ろ向きだから思い出すのを忘れてたけど、それを自覚してた時期もあったことを思い出した。
やはりとてもまだ私が無垢でかわいらしかったころだ。
ただ、その幸福を、私はなぜか、ここだと思えなかった。
ここで甘んじではいけない、このぬくぬくした幸福から抜け出して、どこでも生きていける人間にならなければいけないと思った。
この人と一緒にいる限り、幸福でいられることがわかっていたのに、その得難い奇跡を逃してはいけないという風にはならなかった。
でも彼が結婚した時には、ショックで1週間で4キロ痩せたんだよな。
軽微なストレスだとストレス食いで肥るけど、心底ショックだと食べられないのだということを、私は生まれて初めて知ったんだった。
その後の人生でも恋はしたし、ボーイフレンドもいたけど、あの時だったんだと思う。
その後こじらせたけど、あの時に素直になっていたら、違かったなと思う。
いやほかにも素直になるタイミングはあっただろう。
結局、素直じゃないから、こじらせたんだなあ。
やっぱり素直さが大事だな。
今からでも、勇気をもって素直に向き合っていくことが、鍵だなと思うわ。
ドレスを着て生きてけばいいじゃない。 [生活雑感]
3つ、4つのころから、お姫様にはなりたかった。
なぜならいつも素敵なドレスを好きなだけ着れるから。
お母さんになりたいとも、お嫁さんになりたいとも思ったことはなかったけど。
でも21世紀の日本人である自分はなんてラッキー。
それは実は、全然無理なく可能なことになっていた。
物理的にも、社会的にも。
もはや、インターネットで、ありとあらゆる国のありとあらゆる種類のドレスを、お手頃価格で、しかも品質も十分なものを簡単に入手できる時代になったのだ。
昔からASOSやBUYMAやらmod clothやらを使って、海外のドレスやらワンピースやらを物色することを趣味としていた私。
ミシェル・オバマのドレスや、キャサリン妃のドレス、テイラースウィフトのドレスだってチェックしちゃう。
高円寺の古着屋をまわって、70年代サイケデリック系古着ワンピースから、アメリカから輸入した系のインド綿を利用したヒッピー風ワンピース、むげん堂とかマライカ、チチカカ系の民族系テイストを取り入れたワンピース。。
ありとあらゆるワンピースが好きだ!!
ええ、そうだ。
ロキシーとかビラボンとかいったサーフブランドのラフなビーチドレスも好きだし、タイやバリの土産物屋で売ってるようなチープなビーチドレスだって大好きだ。
300円のドレスも、3万円のドレスも等しく愛してる。
私のワードローブの8割くらいをワンピースを占めている状況というのは、大学時代からさして変わってないと思う。
が、私は今年の春、アップデートしようかと思う。
ワンピースじゃなくて、ドレスでもいいじゃない。
日本に帰ってきて改めて気づいちゃった。
日本は肌の露出にうるさい国だなと。
別に人のために装うわけではなく、己の自己満足のために装うわけだが、顰蹙をかったり、悪印象を与えたいわけではない。
で、友人の披露宴用のドレスを物色してるうちに気づいちゃったわけだ。
日本人向けで、日本社会向け、もはや若くない、会社員、という縛りがある中でも、十分に素敵なドレスが買える時代になっていることに!!
私はミニマリストとかと逆行してくよ。
ミニマリストでジョブズみたいなことが向いてる人はやればいい。
たしかオバマ大統領も、食事のメニューを決めてるとかじゃなかったっけ?
無駄な選択に使うリソースをほかの重要でフォーカスしたいことにまわす。理にかなっている。
だが私の場合は、着道楽なのだ。
装うことで、ストレスを発散し、人生を愛でているのだ。
リモートワークがしたい。会社に行くのはめんどくさい。
が、会社に行く唯一のメリットとしては、私のあのかわいいワンピースをみんなに見ていただこう、みたいなね、そういうところに見出せるようなそういう人間なわけ。
南国に住みたかった一つの理由、ビーチライフを送りたい一つの理由が、サンドレスとかビーチドレスを着て暮らしたかったから、というのもあったりするわけ。
春は楽しいね。
日本に帰ってきて、服のバリエーションを沢山持たなくていけなくてめんどくさいと思うが、それでも春になってうきうきして春らしい服を物色する楽しみは何ものにも代えがたいと思う。
21世紀を生きる私に与えられたすごいアドバンテージである。
庶民なのに、毎日好きなドレスを着て生きられる。
コロナ全盛であろうと、ネットショッピングで世界中、日本中のドレスを買える。
この特権を思う存分にありがたがって、享受して生きていくわ。
焦る俺。 [生活雑感]
日本帰国して、焦ってる。焦ってイライラしてる。
どうしよう、このままじゃまずい。
日本の田舎に埋もれる、何者でもないおばさんとして透明人間のように、そして資本主義の下僕として楽しくない仕事をして、こんなの私の仕事じゃない、こんなことしてる場合じゃない、このまま人生終わってしまう、とヒリヒリ焦りながら時間を送るのだろうか。
そんなの耐えられない。
転職を繰り返すダメ人間。
それでもいい。
そういう人間なんだもん。
急がないと。
はやく次の手ごたえをつかまないと。
そう思って焦るけど、焦ってもうわ滑ってる。
時間を有効に使えてない。
ともすると、現実逃避。
読書や映画鑑賞やテレビ、ニュース、YouTubeがとても面白い。
が、何かを得た気になって本当に何かを得ている?
高校時代、大学時代、モラトリアムな時代に散々楽しんだけど、結局何を得た?
多少は得たものはあったかもしれないし、日々の中にそれらを楽しむ娯楽の時間はあっていい、
見聞は拡がるし、視野も拡がるし、気分転換になったり、想像力も鍛えられる。
が、それによって活動量が、世界とのかかわりが減ってしまうのはダメだ。
でも得たことというか、そうよねえ、とそれらから肝に銘じたことを一応メモ。
自分がどういう人間か、自分の取り扱い説明書を自分でよく心得ること。
とりあえずでも会社を立ち上げておくこと。
ほんの少しの収入だって、収入がありさえすれば会社を立ち上げることができること。
やっぱり好きを仕事にすること。
今一度何が好きなのか、あらためて考えてみる。
結局手が届きそうなところから「現実性がある中で耐えられそうな仕事」というように妥協から始めるんじゃなくて、一番何をやりたいのか、そこからブレークダウンしていくのもありだと思う。
この年になって、だが。
例えば、やっぱり私は仕事としては、社会貢献できることがしたい。
人の役に立っているとあまり思えないのが、今の仕事があまり好きでないポイントだ。
きつい仕事だとしても、社会貢献度が高ければやりがいがあると思う。
さらに最近はドキュメンタリー映画を通して自分の知らない世界の現実を知ることが大好きだ。
そんな私が、最近シリア映画を見たいなと思って、「アレッポ 最後の男たち」を観たくてググっていて、ユナイテッドピープルさんという会社を見つけた。
社会派映画を海外各国から買い付けて興行をあっせんしてる会社のようだ。
こういう仕事すごく興味あるな。
なんかこういう方向性から仕事を模索してみようとかなと思った。
あとは移動時間に仕事をするというホリエモンの話でふと思ったが、私はやっぱり三半規管が弱いらしくて車移動や新幹線移動の最中にはうっすら気分が悪くなったりするし、仕事に集中できないよね。
でも結局フィジカルの強さ、動物としての強さ、強固な意志、負けん気、みたいなものって仕事でも大事で、足元見られたり、舐められたりしないようにすることは大事だね。
また継続は力なりですから、疲れていても二日酔いでもなんでも絶対にブログを更新する、というようなことが本当に信頼につながるし大事なわけだ、というのはなるほどそうだよな、と本当に納得した。
いいなと思ったことはすぐやる、粘り強くやる。
戦略を考えてやる。
間違った方向に歩いていたら意味ないから、方向を見定めるのも大事だけど、なんでもいいからアウトプットしていくことも大事だよな。
私はビビりで安定志向だが、それは自分の「やりぬく気力」に自信がないからなんだよな。
「どこに行ってもなんとかなる」力というか。
でもそれって、私はどこにいっても人に恵まれる、人に好かれる、とかと近しい気がする。
そして結局それは、にこにこ感じよく、人懐っこく、図太くいる、ということで、意外とすぐできるのかも。
でも合わせて、美人でオシャレでスタイル抜群でいる、ということも助けになる気がする。
特にもうおばさんなんだから、日本では独身のおばさんというだけでディスられたりする中で、「でもすごいスタイルいい」とか「でも美人」「でもおしゃれ」という、おばさんだけど舐めんなよ、という防護服として役立つ。
別に「すごい面白い」「すごい社会的成功をおさめている」「すごい人間力」みたいな最強の武器があれば関係ないんだが、ただの私としては、そこらへんをおさえておくことはコスパがいいんだろうな。
結局、インスタとかユーチューブ、SNSの時代、見た目で判断されてしまうことは否めないし、特にたとえば若い子や子供には「かっこいい」「わくわくする」ということは大事。
さらに私自身も、自分がセクシーだったらやっぱりワクワクするし気分がいい。
といってね、、これ日本で陥る危険思想、罠だな、とも思う。
なんとなく焦ってる、面白くない、今のままじゃダメな気がする、そんな時に訳もなく達成感を得ようとして、ダイエットしてみたり、整形してみたり、運動を始めて、朝活して、習い事して、自分磨きしていてそんな私とりあえずなんかやってるという気持ちになるアレね。
不思議と海外にいるとそういう感じにはならない。
なんだろ、日本生活はやっぱり退屈だからなのかな?
なんかこの閉塞感から抜け出すには、そういう道しか身近にないのかな?
いかん。
たしかにオシャレを最大限楽しむのはいいことだ、何より私がファッションが好きだからね。
そこを節約のため、とか断捨離とかミニマリスト的になろうとして、気持ちを抑えこんで我慢することはない。
私にとってファッションで自己表現するのがとても自然なら、それは抑え込むことじゃない。
趣味なんだから、楽しんだらいい。
でも、なんとなく社会的地位を高まるかも?的な感じで、退屈で凡庸な行為に時間を割いてしまったら、それこそ差別化できん。
だったら私はもっと、人と違うユニークな冒険や探検に時間を割きたい。
または独自のソーシャルビジネスとか、ボランティアとか、金もうけの仕組みを考えて試行錯誤したい。
または自分とは何かを思いっきり恥ずかしいぐらいに追求して、自己表現してもいい、小説でも書いたらいい。
または興味があるソーラー発電について、もっと勉強してガジェット買って、蓄電器について大変でもいろいろ試行錯誤してみてもいい。
なんかワクワクできること、面白いことやってこうぜ。
確かに子供を産むとしても結婚するとしても、転職するとか起業するとかにしても、年齢的に焦る気持ちはわかるんだけど、面白くもないお前がいくら焦ったとしてもだな、しょせんまた同じ発想のまま掴めるものは今と変わらんだろうよ、という気がする。
ワクワクしないと死んじゃう、この退屈な会社員生活が続くだけ、またはほかから何かが降り注いできて何かに巻き込まれるんだとしたら、自分から何か始めちゃって痛い目あうほうがよっぼどいいよな!
とはいえワクワクすることが、全然社会問題の解決にならないようなことだとなんだか納得いかないわたしとしては、ワクワクしつつ、社会がよくなるようなことをしたいんだ。
夢見る二流の女、AWSの技術面接落ちる。 [生活雑感]
AWSの技術面接に落ちました。
夢は見ていたので当然がっかりはしていますが、それはもう面接の最中に、あまりに不出来で穴があったら入りたいくらいに質問に答えられておらず、なんで調子こいて面接受けちゃったんだろう?私ごときに無駄に時間を使わせてしまってすみません。。
というくらいに既にがっかりしていたので、面接終わった瞬間のガッカリが8割、お祈りメール開いて2割、くらいですね。
まあ英文メールだし外資なのでお祈りされるような配慮はなく、選考の結果、他の人を検討することに決めました、これ以上の情報開示は致しません、みたいなドライな文面なんですけどね。
さて、反省点を述べよう。
音声通話なのですが、面接官からは優秀さがぷんぷん伝わってきましたね。
AWSのエンジニアは優秀な方ばかりというのは聞いてはいたけど、こういうことですね、という。
頭がいい、知識がある、ということもありつつギークというよりビジネスマンとしても優秀な感じですね。
私は優秀なビジネスマンというタイプではないし、そうなりたい訳でもないので、お門違いであるとともに、目指す方向性としても違うのかなと思いました。
ただしIT,WEB業界にこんなに長くいながら、自分の知識のお粗末さには本当に情けなくなり、そこは猛烈に反省しました。
本当は好きじゃないのでは?
興味ないのでは?
ということも思いましたね。
まあそれはIT業界で働き始めた当初からわかっていたことですが、SEということだとパソコンオタク的なギークがたくさんいるこの業界において、コミュニケーション能力の方が重要だったりもするので、それはそれで機械アレルギーない、プログラミング好き、考えるのが好き、というだけでそれなりに適正ある感じでやってきたわけですが。
まあしかし、あまりにも基本的な質問に答えられなくて恥ずかしい思いをしたのでこれを機に勉強しましょう、最低限は。
あとは、でもやっぱりちゃんと自分の好きなこと、やりたいことを見直そうとも思った。
憧れてはいる。
でも、それって人生のプラスになる経験だから、程度でしょ?
本当に骨をうずめる覚悟ある?
もう人生かけてもいいくらい覚悟あることだけしてくれよ、自分とも思う。