2021年新年の抱負。 [生活雑感]
今年に入ってから、抱負くらい考えないとなーと頭の隅で思うことはあるんだけど、ずっと自分と向き合うことから逃げてきた。
10月、11月、12月半ばくらいまでは、まだ計画していた自分がやりたいと思っていることを推進させている側面も生活の中にあったんだけど、ちょっとずつ「やりたくないこと」「こんなはずじゃなかったこと」に生活の主要な時間をつぶされていき、そして何がやりたいのか、何がやりたかったのか、段々見えなくなって、さらに、なりたいものになる、やりたいことを実現させる気力や自信がどんどん失われて行って、視界がふさがれていって、何も見えないし、何もやりたくないし、ただ息苦しい・・という感じになってきていた。
なんでこうなったのか。
もちろん自業自得で、自分で自分の首を絞めるような行動を日々積み重ねた結果だろうし、私にはいつもそういうところがある。
望んでいないものになろうとして頑張ってしまい、どんどん心と生活が乖離していき、一体自分が何者なのか、何のために生きているかわからなくなる。
そうなりがちなのは、私という人間が、理性的であり、安パイ思考であり、だけどその生き方では息苦しくなってしまうタイプの人間だからである。
いや、みんな多少の息苦しさはあると思う。
たとえばよ、社会的に良しとされているし、それが一番生きやすいし有利な生存戦略だしってことで、その型にはまって生きるという場合。
そういう生き方が生来の特質にあっていて、違和感も抱かない、むしろしっくりくる、というタイプの人もいるのだと思うが、しっくりきつつも、イラついたりムカついたりしながら生きてるケースも普通だと思う。
だけど、私はそれを超えて、生きてはいられない、死んだほうがまし、アイデンティティを見失うレベルになる。
まあでも私は人生で何度も何度もこの過ちを踏みまくり、だからこのブログのタイトルも自戒を込めて、
何があっても判断をまちがうんじゃないよ、ということで「マブい車に乗れ」なのである。
それはつまり、どんなに生存戦略として利口に思えなくても、燃費が悪く、バカっぽく、すぐ壊れても、
実用的だけどときめかない車じゃなくて、ときめく車を選ぼうと、そうじゃないと後で気持ちが苦しくなって結局この車じゃない、ってなるのが私だから。。
本音が介在しない、本心では全く心がときめかない方向性に邁進してるからこそ、そんな自分を直視できなかった。
生活のために、金のために、社会的地位のために、魂を売るところだったぜ。
まあ、何か少し視界が開けたから、何かずっと張り詰めて息を殺している段階から、ほっと一息はけるような何かのきっかけがあったから、今私はこういう時間をとる気持ちの余裕を取り戻したんだと思う。
それは社会生活において、すこし自分を認められるような、自分のアイデンティティを取り戻す瞬間があったからかもしれない。
プラスのフィードバックがほぼない日々の中で、私なんてダメだ・・・という気持ちに沈んでいるところ、久しぶりに自分が優れている部分に光が当てられて、すごいすごい!と言ってもらえて、そうだった私はダメなようでいて凄いところもあったんだった、だから生きてこれたんだった、というように、それで少し血の気が戻ったような感じもある。
そうやって少し血の気が戻ったところに、逆に「お前ごときが」みたいな、ちょっとバカにされてる?という言動を二、三聞かされて、ここでくたばってたまるか!見ておれ!と、すこし発奮した部分もある気がする。
で、つくづく思ったんだが、まず見た目に妥協しないことって大事だなと思った。
服装や髪型で自己表現するのは稚拙だ、という考え方は私の中にもあるが、それでも、結局私がそれ以外の部分で自己表現するのが不得意なら、そういったものも動員するべきだと思う。
使えるものは全部使うのだ。
年取れば余計って部分も逆にあるしな。
身づくろいに気合が入ってない人と、入ってる人で、「私はそこらのモブおばさんです」っていう扱いを良しとする人柄なのか、そういう表現にもなるわけで、まあ衣装が鎧って状況は私は好きじゃないけど、鎧でもあり、表現でもある。
SNSで自分がどんな人間か、何ができるか発信するとかは・・もちろん今の時代重要なんだけど、あざとくなったりして、食傷気味になりつつもあり、あまり前向きになれない時期。
だが、とにかく生身の自分じたいだけでも、どういう人間でいたいのか、どういう人間だと思われたいのか、それを表現していくことは、死んでないって意味で、生きているっていう意味で重要だ。
こういうところ、結局のところ、丁寧に生きるということだと思う。
私は別に、足るを知らない人間じゃない。
自己満足できる人間だ。
その自己満足できるものの確度を生活の中でもっとあげていく。
まずはそこだ。
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