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井上荒野「あちらにいる鬼」感想。寂聴さん追悼。 [音楽メモ]


あちらにいる鬼 (朝日文庫)

あちらにいる鬼 (朝日文庫)

  • 作者: 井上 荒野
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2021/11/05
  • メディア: Kindle版

図書館で借りて読んだのは単行本なので、装丁は下のやつ。




正直、装丁に嫌悪感があった。またまたー、女流作家の作品で、内容もほぼノンフィクションの不倫だし、どろどろ感ということもあるしってことなのかもしれないけど、だから裸婦像っていうありがちな思考、キモい。


とはいえ作者がもちろんゴーサインをだしたのか、はたまた作者がそれを望んだのだろうけど、私の感性ではないなー。

井上荒野さんに作家として興味を持ったことと、寂聴さんの人生に向き合ってみたいなというか、寂聴さんの自分語りではなくて、寂聴さんの不倫相手の子どもであり作家である井上荒野が、母と父とその不倫相手である寂聴さんの三角関係のようなものを描くというのが、とても興味深いと思ったからだ。


で、実際、井上荒野さんはさすが作家なんだな、という繊細な感性や表現力みたいなものは感心したし、決して嫌いじゃないし、他の作品も機会があったら読んでみたいなと思う。


だけど、「あちらにいる鬼」を徹頭徹尾ちゃんと読む気にはなれなかった。

ところどころはちゃんと読んで、あらすじは追ったけど。


作者からしたら、そら意義があるだろう、父と母って結局なんだったんだろう、と理解したい、表現しておきたい、というモチベーションはすごいわかる。

特に、母親は、いったいどういうつもりで、複数の女性と不倫しまくる父親と最後まで添い遂げたのだろうか、母は幸せだったのか、不幸だったのか、父は一体どういうつもりだったのか、母を愛していたのか、寂聴さんはいったいどういうつもりだったのか、そういうことを自分なりにかみ砕いて理解して受け入れたいだろう、娘だったら。


だからとても丁寧に、両親の間の愛と、その人生を理解しようとして、書いた真摯さが伝わってきて、決して嫌な本ではなくて、人生賛歌のように読む人によっては暖かい気持ちになれるんじゃないかと思う。

それにこの本の主役は、寂聴さんでもあり、なんというか文学的才能とかどこかきらりと光る愛すべきものがあるんだろうけど、しょうもないところがある父を間にはさんで、でも同じ男を愛してしまった女同士の友情みたいな感じでも書かれている。

それに母親も実は作家である父のゴーストライターをやったりしていたわけで、文学的才能がある女たちである母や寂聴さんの心の機微や感性を描いているというところも面白いんだろう。


が、私にはこの作品を重ねて理解したいような人もいないし、私自身も全然感情移入しないので、結局のところ、ふーん、ということだけが残った感じだろうか。


なんというか、おそらく作者の母も寂聴さんも、本能とか感性とかに従うタイプなんだろうな。

井上光晴のことはよく知らないけど、小説家なんだし、やっぱり文学的感性があり、独特で、同じように文学的な感性がある女性を惹きつける何かや、一緒にいて話が合って楽しい何かがあったのだろう。

だからみょうちきりんだし、なんなら鼻につきさえもするし、決して見るからに素敵な男で夢中になったというわけではないのに、いつの間にか一緒になることを選択し、ほかに女がいることがわかっても、自分は特別と言われて、結局まあいいかという感じで関係を続ける。


もしくはふたりとも自己肯定感が低いから、熱烈にわかりやすく自分を口説いてくる男を拒めなかったのか。

またはふたりとも、そんなに男に依存する気がなかったから、来るもの拒まずのような感じで、軽い気持ちでなんとなくずるずると付き合いに突入し、深みにはまったのか。


それとも常に何人も女性がいるような男ならではの、気楽さみたいなものがあったのか。

なんかそういうのはある気がするよね、そういう男ほど、肩に力が入らずに女性を楽しんで口説くんだろうから、他に真剣に交際している男がいて、でもその人との関係に倦んでいるような女性は、気晴らしを兼ねて、気負わずに気楽にそんな男との関係に入ってしまうのかも。


または井上光晴は旅先でもアバンチュールしまくりで、よく旅先の女性からラブレターが届いていたというくらいだから、本人が口説きまくるだけでなく、何か色気がある人だったのかもしれず、魅力があったのかもしれない。



まあそれくらいのことをなんとなく思ったりはした。


結局のところ人生は、決断と選択の連続で、どんな選択したかが自分そのものなんだろう。

その選択をしたということが、充実した生を生きたということで、ある種幸せなことだったろうと思う。

もちろん、東海道を行きますか?中山道を行きますか?ということで、「中山道を行きたい」と思って、中山道を行ったら、苦労が多かったかもしれないけど、でも自分が望んだ道を歩けた、自分で舵を取れた充実感のような幸せはあるはずだし、まあどっちでもいいやってくらいの成行きで東海道を行ったら、思っても見ないほど景色がよくて結果幸せだったということもあるだろう。

結局どの道を行ったとしても、運転を、ドライブを、思わぬハプニングのスリルを楽しめたらいいんだ。



それに寂聴さんは、「愛した、書いた、祈った」と墓碑に刻んでほしいと言ってたよな。

つまり、結局、なんというか、過ぎ去ってみたら全部自己満足に過ぎないのかもしれないんだけど、愛したいから愛して、書きたいから書いて、祈りたいから祈った、よく生きた、幸せだった、ということじゃないかと思う。


成し遂げた功績とか、世の中や人々に与えた影響とか、善悪とか苦楽とか、もちろんそういう要素はあるんだけど、一個人の人生の価値は、それを排したところにある気がする。



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