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完璧な青年の自死-助けてということも勇気 [メディアまわり]

三浦春馬さんが、自宅のクローゼットで首つり自殺をしたという昨日のニュースには、私も息をのんだ。


息をのみながらも、なんとなくテレビをつけていて、竹内結子と長澤まさみが出ている映画なのかドラマなのかわからない面白くなりそうな、面白くならなそうな番組を見ていたら、華麗に三浦春馬が登場して、またもやなんとも不思議な気持ちになった。


つい最近もNHKでJUJUと三浦春馬がマルタ島のデザインなどを紹介しているのをボーっと見ていたばかりである。


木村花さんの硫化水素自殺に皆がショックを受けたのはついこの間のことである。


もちろん木村花さんの自殺も痛ましく、ショックを受けたが、今回はなんかもっと衝撃を受けた。


というのも私はテラスハウスを一度も観たことがなく、木村花さんのことも、知らなかった。

ただテラスハウスが超人気番組で、なんなら蒼井優はテラスハウスの大ファンで、テラスハウスのコメンテータをしていた山ちゃんがそれをネタに交際にこぎつけたというくらいで、そこに出演している人が時の人であることは理解していたくらいであり、そこでおそらく強要されたであろう演技が、本人の人格だとして日本中の視聴者から、憎しみを向けられ、SNSで攻撃された。


リアリティ番組でヒール役に仕立てられた駆け出し、売り出し中のタレントが自殺する。

そんな世界中で起きている社会問題が、ついに日本でも起きた。

SNSによる人殺し。

編集次第で、いくらでも都合よく仕立て上げられる真実。



そういう文脈のショックもある。

彼女の個人的資質に起因するものではなく、誰でも同じ立場に追い込まれれば危うかったのではないかという気がする。

救えた命だった気がするし、群衆が彼女を殺したという恐ろしさがある。


ただ三浦春馬の場合は、色々な不条理や無理を強いられても売れるためには飲むしかないかもしれない、弱い立場の駆け出しタレントではない。


ふつうによくテレビで見る、つまり芸能界の第一線で安定的に活躍している真っ最中であり、

鵜の目鷹の目の芸能界においても、安定感をもって神々しいようなポジションにいた印象がある。


頑張ってしがみついているという感じではなく、当然のごとく席を与えらえていた感じ。


それはただルックスがいい、ということではなくて、何かしら非凡な人を惹きつける透明感や存在感があったからだろう。

さらに年を重ねて、30歳になって、NHKのトーク番組で進行役を務めている姿を見ても、知的で謙虚で、安定感があった。


なんの素振りもないまま、鮮やかにいってしまったからこそ、衝撃なのだが、そういうことか、と思ったりする。


それこそが彼が逝ってしまった原因のように感じる。


村上春樹の小説にもよくあったと思うが、ほかの誰かの体験談でも聞いたことがあるように思う。


優等生で、人望も篤く、将来が約束されていた、朗らかに人生を謳歌しているように見えた眩しかった同級生がある日突然なんの前触れもなく、自殺を遂げたという話。


つまり、完璧すぎるじゃないか、よく考えてみたら。


子役上がりで、今の今まで一度もぐれる素振りも見せず、スランプの素振りも見せず、キラキラ輝き続けたまま、まじめに誠実に謙虚に、大量の仕事を笑顔でこなし続けてきた。


もちろん19歳頃に「俳優をやめて農業をやりたいと思ったことがある」とか、「助けてと誰かに言うことも勇気で、それができたらまた一つ大きくなれると感じた。やっと20代後半になってからだけど。」とか、もちろん苦しかったんだろうなということを多少は表現してるけど、結局はみっともない姿を世間にさらすことない範囲で、乱痴気騒ぎをするでもなく、わがままを言ってみるでもなく、出来すぎた子役の謙虚さで自制して、自分で乗り越えてきたんだろうと思わせる。


立ち居振る舞いにスキがなく、360度完璧に見えるということは、つまりそれだけ常に他人に求められる自分であろうと、張り詰めたストレス度の高い生き方だったのではないか。





誰でも、忙しさやいろいろなものに負けそうになって落ち込んで「よくわからなくなった、逃げたい!」となるかもしれません。でもそこからさらに頑張る、というところまでいかないとだめなんだと、僕は思っています。



これは2013年の彼の弁ですね。

かなり頑張ってる生き方だと思う。


「助けて、というのも勇気、それを言えたら」というのが、2020年4月の彼の言葉ですね。


なんとなくですけど、もう「助けて」と言わないと自分自身もたない、やばいというのは感じてるけど、結局言えなかったのかなと感じてしまいます。


ブラック企業勤めで、ある日、電車に飛び込もうとして危なかったという人のTwitter漫画を読んだことがありますが、逃げたい、辛い、でもまだ頑張れる、、、を繰り返してるうちに、だんだん視野狭窄がおこってくる。


逃げ道はどこにもない、自分には茨の道を歩き続けるしか選択肢がなく、でももう無理だ、もう歩けない、楽になりたいと思った時に、選択肢は「死」しか思いつかないところまで来てしまう。


わかりません。


ただあともう一つショックを受けたのは、「自宅のクローゼットで首つり」という具体的な報道。


自宅で死亡が確認されました、遺書のようなものが見つかっている。


だと確かに人気者であればあるほど、病死か、事故死か、暗殺か、など疑惑を呼ぶだろうから、きちんと疑念の余地がない形で報道するのは、いいことにも思うが、一方で自殺願望を持ってる人たちにインスピレーションを与えてしまうのでないか、、青少年に強烈なインパクトを与えすぎではないかと危惧してしまう。



ただ逆に、苦しい、辛い、と今現在思っている人たちに、逆のインパクトを与えたかもしれない。

つまり、どんなに人生に成功していて、若さも健康も仕事も名声も金も美も能力も、すべてを持っているように見える人だって、他人からはうかがい知ることができない苦悩がある。

首吊り自殺のほうを選ぶくらいの苦しさがあった。


自分ばっかりが苦しいように感じて、近視眼的になってた人は、誰しもが己の地獄を抱えていることに気づいて、人にやさしくなれるかもしれない。


そして、あまりにも勿体ない彼の選択に、逃げたってよかったのに、無責任と思われようが、人格を疑われようが、甘えてると思われようが、居場所がなくなろうが、どこかでひっそり生きてさえいれば、また生きたいとおもえたり、やりたいと思えることが見つかったり、やれると思う道が見つかったりしただろうに、とだれもが思うだろう。

それをきっと、己に当てはめることもできるんじゃないかね。


期待を一身に背負っている人であっても、もちろん、期待を全然背負ってない、誰からもたいしたことを期待されてない人だったら余計にハードル低く逃げられるんだよ。


みんな逃げよう。

それが、逃げるハードルを低くする日本社会の構築につながる。


東南アジアを見てみろよ。

みんな、嫌だと思ったらいとも簡単に仕事を辞める。


そうやってみんながさっさと辞めるから、ジョブホッピングなんて当たり前だし、

逆に次に人を雇う時だって、「この人、前の会社をすぐ辞めた」とかは日本ほど厳しくマイナスにならない。


さらには、出戻りさんにも寛容だったよ。

つまり一旦やめて、また同じ会社に戻ってくるとかに対しても、寛容。


あとは、バッシング耐性をつけよう。

昔のように土地に縛り付けられる生き方をしていたら、村八分になったらかなり苦しかったかもしれないけど、

今はもっと軽やかに生きていけるはずだ。



NOというようになったら、逃げたら、誰からも好かれるということはなくなるだろう。

そして悪口も言われるかもしれない。

悪口を言われる自分を許容する。

それでもNOといえた自分を好きでいる。

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