テレサテンの魅力が解るような大人になったなと思う。 [音楽メモ]
私大人になったようです。
最近昭和歌謡が若者の間で流行っているとか、そういう流れで、このテレサテンの「別れの予感」をつい最近耳にしたんだと思う。
どこへも行かないで
という歌詞がふと思い出されて、その曲が聞きたい、、と、確かテレサテンか誰か・・と検索したら、聞きたかったメロディが出てきた。
これを改めて聴いてみたら、涙腺が緩んだ。
生前のテレサテンは、幼児の私にとっては、興味がないおばさんだった。
歌にも興味がなかった。
でも、こうして、亡くなった時のテレサテンに近い年になって、改めて彼女の歌を聴いてみたら、彼女がいかに可愛らしい女性であったのかということがわかる。
美しい声、歌い方、表情。
全てに清潔感がある。
顔が特に美人なわけではないけど、育ちの良い可憐さがある。
彼女は台湾人なわけだけど、彼女の歌う姿を見ていたら、東南アジア女性の魅力みたいなものの集約も感じた。
タイ人、フィリピン人、ベトナム人・・・私の接してきた東南アジア人女性というのは、普通の良いとこのお嬢さんの場合、まだまだ純潔な感じがある。
そして、結構情熱的である。
ちょっとたどたどしい日本語もまた可愛らしい。
東南アジア女性の魅力を理解した上で、改めてテレサテンに出会ったからこそ、彼女の魅力がわかったというのもあるだろう。
そういう外国人女性の魅力をテレサテンも体現している。
テレサテンのことを、おばさんじゃなくて、可愛い女性と感じるようになるなんて、私も大人になったなと思った。
あとは私が愛を知ったからだろうか。
なんというか。
愛って、テレサテンと会ったこともないのだから、彼女の本当の人柄なんて知る由もないのだけど、歌声を聴くだけで、心が動いてしまうようなものに近いと思う。
子犬や子猫を見たら、無条件に心を掴まれてしまうのにも似てる。
愛は無条件。
尊いものとかでもないと思う。
どちらかといえば本能だし、むしろ我欲に近いと思う。
だから私は愛というものにずっと不信感を抱いてきた。
だけど、その正しいわけでも尊いものでもないものに身を任せるのもいいんじゃないかと最近は思う。
ただの本能だとしても、可愛らしい本能に違いない。
好きにのびのびと生きれば良い。
私たちは動物。
動物としていきいきと生きれば良い。
そしてまた私たちは動物だから、必ずしも正しくなくても、生き生きと生きているものに心惹かれるし、心動かされる。
昔は、愛だ恋だといって血迷っている人々をどちらかといえば冷ややかに見ていた。
でも大人になったからか、そんなことで右往左往している人々を可愛らしくも思える。
それは人間が30歳になろうと、50歳になろうと、70歳になろうと、そんな愛情問題が基本的には重大な問題なんだということが変わらないのだろうというのがなんとなくわかってきたからかもしれない。
狭義の惚れた腫れたではないかもしれないが、結局は、誰かに優しくされた、とか、冷たくされた、とか、そういうことで気分がよくなったり悪くなったりする生き物なのだ、これかもずっと。
だから。
テレサテンのこの声と、メロディだけでなく、この歌詞の世界観にもふと揺すぶられるものがあるのだと思う。
昔はダサいと思ってた愛や恋をストレートに歌い上げる歌謡曲。
でもこんな風にはっきりしたてらいのない表現、芝居がかっているほどドラマティックな表現が逆に新鮮でカッコイイという、今の若い世代の感覚が私にも影響を及ぼしたのかもしれない。
確かにそうなのだ。
あーだこーだというよりも、好きだ、と一言いう方がいつの時代も好感度が高いように、ここまでストレートに歌い上げる世界観になんか逆にハッとさせられる。
もちろん彼女の卓越した表現力と歌唱力あってこそなんだけど。
あとは
どこへも行かないで
みたいな心情というのは、心の奥深くに抱えていたとしても、意識化にはなかなかのぼって来ない。
歌だから、歌っちゃっていいわけだし、彼女の声と歌い方だから美しい。
海よりもまだ深く
空よりもまだ青く
とかいう歌詞もベタなんだけど、彼女だから、それも美しく純粋に響く。
曲も歌詞も優れているんだろうけど、それよりも、テレサテンの魅力が前面にくるなあ。
とても好感度が高い。
なんだろう?
あとは、カズオ・イシグロの小説みたいな感覚もあるかもしれない。
大人になって色々知ってしまったら、何も知らなった子供の頃のイノセントで守られていた世界にノスタルジーを感じるように、、、ひと昔前のある意味単純だった男と女の世界みたいなものへの感傷もあるのかもしれないなあ。
中村玉緒と勝新太郎みたいな。
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