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映画「トーベ」の感想。 [映画メモ]

ムーミンの作者、トーベ・ヤンソンの映画「トーベ」を見てきた。

わりかし、サガンとか、シャネルとか、パトリシアハイスミスのやつとか、なんとなく似た感じの、女性の文化人の奔放な恋愛遍歴みたいな感じの作品は観ている気がするんだけど、そんな中でも、よかったね。

一番身近に引き寄せて見られたというか。


まあトーベががっつり失恋するところがいいんだろうなあ。

自由な魂、といいながらも、やっぱり人間、絶対的に愛する人は独り占めしたくなるわけだし、自分のことも絶対的に愛してほしくなるものであって、その矛盾が痛烈。

なんというか、でも清々しい恋愛遍歴なんだよな、すべて自律的というか、能動的というか。

そしてまっすぐぶつかって、という。

惨めったらしい詐取されてばかりの愛の奴隷的な恋愛の仕方でもないけど、圧倒的優位からの弄ぶ的な恋愛にもなってなくて、真摯な感じがする。

恋愛を美化も卑下もしてない感じの描写の仕方もいい気がする。


あとはトーベがあんまりまだ売れてなくて、スターでもなくて、芸術家として認められようとしてもがいていたり、嫉妬したりしている描写がいいんだと思う。


最後、もう終わりにしないとと思いながらも、愛してる、と告白するトーベに対して、私はパリを愛してる、と回答するヴィヴィカ。

このシーン、よかったな。

ヴィヴィカが、そこでバッサリとそう回答するところがいい。


そして、トーベが、ヴィヴィカとの出会いと別れを、「滝から現れた美しい竜に襲われたみたいな素晴らしい経験」と「竜を大自然に還してあげないとね・・・」と表現しているのもとてもよかった。


こういう感じはとてもよくわかる。

愛しているけど、1対1でコミットした関係は考えられないということはあったし、それはなんでかと言えば、やっぱり生息地が違うからというか、私は海と川と陸を行き来する動物だけど、向こうは川にしか棲めない動物で、でも私は一生川に棲むことはどうしても考えられないから、みたいな感じだったし。



で、結局どういうことなんだろうな、と考える。

ヴィヴィカはトーベを愛してなかったわけじゃない。

だけど、私もあなたを愛してる、とは言わず、私はパリを愛している、という、でもそれの方がやっぱり真実なんだと思う。

ヴィヴィカもヴィヴィカなりにトーベを愛してはいるけど、トーベと同じ熱量では愛してないから、「愛してる」はやっぱりウソになるんだと思う。

その愛は、やっぱり「とても好き」とかそういう風にも言い合わされるようなもので、「あなたがそばにいてくれたら嬉しいし、あなたがいないとつまらない」とは思うけど、でも「あなたのいない世界なんて太陽のない世界と同じ」というほど絶対的に惚れている、というものじゃないんだよね。

だけど、芸術家なんて、なかなか、みんなそういうところはあるんじゃないだろうか。

つまり、自分の芸術のほうが、愛とか恋よりも重要な気がする。

でも、結局惚れたほうが負けで、惚れて惑わされてしまったほうは、苦しみ、苦しむことで執着する。

トーベだって、自分の芸術のほうが大事なのだが、苦しんで執着して、また苦しむのだ。


でも、愛を分散できる人ヴィヴィカは、ほかにも愛を分散しているから、執着はしない。

そういうことなのだろうか。


それにしても結局人間は都合がいいもんだな、と思う。

町山さんの解説によると、男性の恋人である新聞社の男は、スナフキンに投影されているとのこと。

既婚者で、妻のもとに帰っていく男性を、旅に出て春になったら帰ってくるスナフキンにたとえていて、そんなスナフキンが大好きで、いつも首を長くして待っているムーミンにトーベが投影されていると。


だとしたらそんなに絶対的に大好きだったのに、ヴィヴィカを愛してしまったら、もうスナフキンでは心を満たせなくなってしまうわけだ。

そして最初は都合のいいことをたくさん言っているのだ、たとえば、奥さんがいたって関係ないとか、男はあなただけ、女はヴィヴィカだけ、とか。

結局、自分の心の上でそれで都合が良かった時には、それでいいんだけど、結局本気になれば、そんなわけにはいかなくなるわけで。

そして最後に、傷ついた経験を受け止めてくれるような、穏やかな関係を築けそうな女性と添い遂げたそうで、それもなんだかありがちっぽくて都合がいいなと思った。

もちろん、ハッピーエンドでよかったじゃん、という話ではあるんだけどさ。


そう感じてしまう私はひねくれているのだろうか。

ただトーベも、もともと自立していて自由なところもあり、、でもヴィヴィカの自由さとは何が違うのだろうかね。

やっぱり、愛が深くなれば、不自由になるのは、自然ではあるし、そういうことなのかな。

結局、頭で、自由な魂、自由な精神といったところで、愛が執着や独占欲を伴うことも自然の摂理だしな。

それか、あとはやっぱり友情のような愛情か、というところもあるかもしれない。


友情のような愛情の場合、深い愛でも、独占欲に結び付かずにおける。

だからヴィヴィカの感じはわかるんだけど、コミットした関係になれないと悟って、終わりにしましょう、と関係に終止符を打つトーベの側は、やっぱり1対1の関係じゃないと耐えられなかったわけで。


そして「結局二股してる奴は二股されている」という、大槻ケンヂ論を想起させる。

大槻ケンヂは、最盛期に10股くらいかけていたけど、結局判明してみたところ、相手の女の子たちもそれは同じで、お互いに1of Themだから、それが成立してたことがわかったんだと。

それがわかった大槻ケンヂは賢いほうだよね。

でも実際、私の若い頃の友人で、二股かけている女の子って、百パーセントの確率で、一方が既婚者で、一方が不義理な同世代の男だったりして、要するに、彼氏に二股をかけられているから、その穴を埋めるために既婚者とも付き合っていたりか、その逆か、みたいなのばっかりだったんだよね。

浮気相手が本命になれない説と同じで、50%でちょうどいい相手を100%の相手に繰り上げようとしてもうまくいかないし。

100%の相手と100%向き合える恋愛ができていれば、そもそも二人目なんて考えが浮かばないものよね。


なんていうことをトーベを見ていて改めて思い出した。

結局ヴィヴィカは旦那もいて、「旦那がいると便利よ」という発言を最初の頃にしていることからもわかるように、やっぱりヴィヴィカは最初から30%とか50%とか位しかトーベには求めてなかったのかもしれないよなあ。




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