村上春樹「猫を棄てる」と「進撃の巨人」の共通点。 [読書メモ]
まだ、進撃の巨人最終回が頭の中でぐるぐるしている時に読んだこともあり、いろんな箇所で進撃の巨人が重なってしまった。
ひとつは「記憶の継承」の話だ。
ね、まるでテーマが進撃の巨人でしょ。
ただ村上春樹が言ってるのは、もちろんファンタジーではなく、実際に父親から戦争体験の中のトラウマな話を小学生の時に父親に聞かされたハルキは、自分が実際に経験したわけではないが、やはりトラウマのようにその話を胸に刻み付けた。
それは、中国の捕虜を、日本兵が首切処刑した話だ。
それを目撃したのか、もしかしたら父親が手を下したのか、わからない。
詳しく訊けない雰囲気であったと。
そして、父親は、毎日、死んでいった日本兵と虐殺された中国の人々のために、仏壇の前で祈るを欠かさない。
父親が五体満足に復員したが、3回も徴兵に取られており、毎回なんだかんだでするっと帰ってこられているが、所属していた部隊はその後、激戦地で壊滅したりということがあり、自分はたまたま運よく生き残った、または京大生ということで、免れた部分もあり、他の人の犠牲の上で助かったという思いもあっただろう。
だからこそ、彼の小説には、いつもパラレルワールドでおこる残虐な世界の話が大体組み込まれるのも納得する。
自分の代わりに、パラレルワールドで流された血。
そういう話が出てくるのは、この「猫を棄てる」で納得する。
私たちは関係ない。遠い過去の、私たちが生まれる前に起きたこと、では済まされない。
むごい残虐行為、それをしたり、されたり、または誰かの犠牲によってしないで済んだり、そういう諸々の土台の上に、たまたま私たちはのうのうと平和に生きていられているが、それは犠牲の上に築かれた平和であり、今この時だって、私たちが安穏と暮らせている分の皺寄せがどこかの誰かの上にいっている。
その思想は、進撃の巨人の世界観と結構似てる、偶然の一致かと思うけど。
進撃の巨人は、色々超能力じみた話が出てくるけど、実はそんな設定がなくたって、生き物は記憶を継承できるし、テレパシーのようなものがあるのだと思う。
たとえば樹齢7000年の木、というものが実際今も生きているわけだし、植物はテレパシーとかそれこそ進撃の巨人でいったら「道」か?という感じで、伝達を行っているという話をきく。
実際は、もっと科学的な話であって、何か物質を、根からとか、空気に拡散させたりとか、そういう手段をとっているのだろうけど。
そして7000年生きてる木からしてみたら、せいぜい100年足らずで死んでしまう私たち人間なんていうものは、昆虫のような小さな存在感なのかもしれない。
さてしかし私たち人間は、言語があるし、文字もあるし、今なら映像技術もあって、実際に体験していないことをトラウマ追体験することが容易にできてしまう。
それって、別に、進撃の巨人の中で、誰かの記憶を見にいって知った、というのと別に変らないことだよなと思う。
ただ、まあこの本自体は、割とクソだと思う。
大家になったから、こんな本でも出版されるし、売れるけど、父親について書いていながら、父親と絶縁状態になった経緯や理由などは、述べない。ずるい。向き合ってない。言いたくないことは書かない。
まだ生きている人間のプライバシーに配慮したのかもしれないが、父親と息子の関係を書くなら、「そこは述べない」はずるい。
誰だって、自分が72歳にもなれば、死も身近になってくるし、自分の一生を考えると、父の一生がちらつき、和解できないまま死んでいった父親の人生、そして彼は一体どういう人だったのか、今になって思いをはせ、理解に努めようとする心持は非常に理解できる。
そして作家なんだから、それをエッセイとして執筆して、文芸春秋に載せるくらいは全然ありだと思うけど、ようするにこんな薄い内容で一冊の本にして売ってしまうところが間違ってるんだろうな。
普通に同世代の戦争を経験したような方が、「私の一生」としてまとめた手記を読んだら、みんなその世代の人は波乱万丈な、変化の多い一生だっただろうから、そのほうが面白いだろうと思う。
ハルキが父親の一生を、従弟の証言を頼りに、追ってみたところで、息子にとっては、「きっとこのころオヤジはこんなことを考えていたのではないか」と推測したりするのは意義があっても、読者としては、まあ、うん、、って感じである。
結局、村上春樹が、シベリアの拷問とか、中国での虐殺、みたいなことをちょいちょいパラレルワールド的な感じでいれるのは、父親から継承したトラウマのせいだというのがわかったことだけが、ファンとしての収穫か。
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