映画「娘は戦場で生まれた」の感想。 [映画メモ]
記録映像として貴重なんだと思う。
やっぱりニュースを読んだりするよりも、映像で見たほうが理解しやすいから。
アレッポが最初のまだ平和的なデモの段階から、がれきの山になるまでの最初の不穏な出来事として出てくる、反体制派の死体が川から見つかる件だが、字幕だと「死体があがった」みたいな感じなので、せいぜい2,3体かと思いきや、20、30くらいの遺体が・・。
そして「顔を確かめた人から帰って」みたいなアナウンスがされているなか、お医者さんである撮影者の旦那さんがざっと検死してまわって全員拷問を受けて殺されているという、、、まずそこから異常事態なわけだけど、どんどん異常事態がエスカレートしていって、街ががれきの山、戦場となっていき、瀕死の5歳くらいの弟を10歳くらいの兄たちが連れてきたり、、という状況、、そして病院が攻撃される。
語りでは、「国際社会がこんな事態を見殺しにするとは思わなかった。だが誰も助けてはくれなかった」という。
だいたいなぜアレッポが攻撃されているかというと、反体制派の拠点でデモを行っていたら、体制とそのバックについているロシア軍に攻撃されている、ということみたいで、、さらに攻撃されても残っているのは、暴力に屈しない、という意思表明であり、革命、ということだったみたいだ。
私ももう少し、アレッポの当時の事態について勉強しないといけない。
でも、映画だけ見て思ったことは、、、あれよあれよと異常事態が深刻化していくことの恐怖。
ミャンマーと重ねる。
ミャンマーだって、ついこの間まで民主化が進んで、経済発展してきていたのに、突然クーデターが起きて、平和的なデモだったものが、反体制派が殺されていく事態になっていっているけど、国際社会が介入してその事態をすぐになんとかしてくれる、ということにはなってない。
そういうことは他人事じゃないし、明日は我が身かもしれない。
日本だって、きっと第二次世界大戦で破滅に突き進んでいく前夜、みたいな段階があったことを思い起こさせる。
だからといって、不穏になってきた空気の中、庶民にいったい何ができるのだろうか、というのはあるけど、、。結局デモをして、国際社会に訴えたところで、国際社会がどこまで介入してくれるのだろうか、、。
ただ正しさを追求し続けたから、壊滅的に暴力を振るわれることになったとも思えて、抗って殺戮されるなら、暴力の前に屈したことにはなるし理不尽かもしれないが、でも諦めてアレッポを明け渡して難民となってでもみんなで逃げたほうがよかったのではないか、そうすれば子どもたちが殺されることはなかったのではないか、、、そんな考えも浮かぶ。
最後に、結局、アレッポから逃げることになり、その前に「今ここで逃げたら今まで戦った意味がない」というのだが、もう選択肢は残ってない、ということで逃げるのだが、、、。
もしかしたら、デモの頃からたくさんの人が殺戮されてきているから、その人たちの犠牲を考えてしまってのことなのかもしれない。
この映画の最初のほうのナレーションにも出てきていて、「正義のための戦い」「革命のために」「理念のために」アレッポに残ったといっていて、そのあたりが気になった。
わかるよ、人権の蹂躙、独裁政権による殺戮行為、全くもって正しくない。
ただそれに抵抗する正しさ、というのは、結局戦う姿勢になり、子ども達を戦争に巻き込むことになってしまう。
どんな戦争も、やってる本人たちは、正しさとか理念とかに支えられて、正義のために戦っているつもりなんじゃないだろうか。理念とか正義とか言い出したら危険なんじゃないか、と思うところがある。
よく、20代の息子とかがそうやって戦いに行きたがりがちで、50代の母親とかが、やめて!!!と言っているような図式がありがちだけど、実はお母さんが正しいと思うことも多い。
だってその正義って本当に正義なのかといったら、結局、誰かに思い込まされている正義であったり、誰かの駒となって犬死することにしかつながらなかったり、命をかけるに値しない可能性が大だったりするからだ。
革命だ、というとカッコいいし、それに酔えるけど、、勝算があるかはキーだと思う。勝ち目のない戦いだったら、ただの犬死にだし、民主主義国家で、訴えている分には効果があることでも、反体制はあっさり消すで有名な独裁政権下だったら別の戦い方を考えるべきだったりしそう。
母親の正しさというのは、自分の息子に死んでほしくない、という近視眼的な思い、と思われるかもしれないけど、実はお母さんのほうが大局が見えてたりする気がする、、ようは自分の息子と誰かの息子が殺し合ってそれで得をするのは誰か?という。
この映画でも、子育て真っ最中の主人公の女性が、子どもを亡くして泣く母親に自分を重ねるシーンがある。
結局私は、希望は一番そこにあると思った。
人類は共感力の生き物で、どんな人種のどんなお母さんが子供を亡くして泣いていても、それに共感して心を痛めない人はいない。洗脳された少年兵とかだともしかしたらその共感力は低いかもしれないけど、いったん子供を産んで母性をもった人間の共感力はものすごく強い。
けっきょくそれが、戦争を防ぐ一番の抑止力で、平和な世界を築く一番の肝になるんだと思う。
さて、では戦わないことが正しいのか、といえば、、やっぱり侵略されたら死ぬ気で自分の生まれ育った町や誇りのために戦うのが人間じゃないだろうか。とも思う。
戦わなくても蹂躙されて死んでいくんだから、「戦わなければ勝てない」「戦え!」という進撃の巨人的方向性。
ただ一介の街に、ロシア軍が爆撃してくる、とかになるともう勝ち目はないわけで、無駄死にするなら、まず逃げるしかないかな。
この映画に出てくる10歳くらいの男の子がいて、両親と一緒にまだアレッポに残ってるんだが、友達はみんなアレッポの街を出たか、残っていても瓦礫に埋まったり、爆弾に当たったりしてどんどん死んでいく、、でも自分はこの街に残るといって泣いてしまう子がいて、、子どもなりに状況を理解し、両親を理解しようとし、サバイブしている様子がなんとも・・だった。
そういう様子を見ても、正義のためにアレッポに残ることが、親のエゴとも思えなくもない。
主人公たちも、アレッポの外にいる祖父母に、赤ちゃんである娘を託すチャンスもあったのに、娘を手放しがたい一心で、娘を連れて前線を抜けて、アレッポに戻ったりもする。
そして、娘に、将来、私たちのしたことを理解してもらいたい一心で映像を撮った、と言っている。
結局、それらの行為が正しいのかはやっぱり賛否両論な気がするけど、それでもおかげで記録映画を撮って、アレッポで何が起きていたのかを内部から撮影して世界に発信した、という意義は大きいと思う。
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