村上春樹と無印良品の共通性。 [読書メモ]
またもや電子化されてるクーリエから。
2010年の村上春樹のノルウェー、アフテンポステン誌のインタビューの翻訳より。
https://courrier.jp/translation/42873/
村上春樹「ノルウェイにて」
From Aftenposten(NORWAY) Text by Mala Wang-Naveen Photograph by Trygve Indrelid
2010.9.25
ー抜粋
人間は否応なく社会のシステムに組み込まれていくものですが、個人がシステムに支配され、自由を奪われたり、自立した思考ができなくなったりすることこそ、原理主義だと僕は考えます。どこにも依存せず自立することなど、ほとんど不可能じゃないでしょうか。この世界は本当に複雑ですから。
僕が書いているのは、システムを選択することの難しさなのです。もちろん、僕は小説家にすぎないので物語を書くだけですが、いい物語というのはそれだけで価値があるものです。
たとえば、人口20万人ほどの小さな島、アイスランドを訪れたときのこと。僕の本はそこでも数冊翻訳されており、こんな日本から遠く離れた場所でも理解してもらえるのかと驚きました。
このときから僕は物語の力を信じるようになりました。物語というのは、僕たちが理解し合うための手段であり、各種のイズムとも闘う手段なのです。実際、いい物語は、イズムではありませんからね
I realized I really love him.
I know it well since 20 years ago.
But I am slightly surprized that I am still moved each time to read his each words even though it is not his work but just his interview.
この記事はおそらく過去記事だし、既視感がある。
クーリエと村上春樹のファンである私は、絶対昔に読んでいるであろう。
別に目新しいことを目にしたわけではない。
それでも、いちいち新たに心が反応し、そして浄化されたような気持ちになるのである。
若い頃はあまりに夢中になりすぎて、怖かった。
世の中には村上春樹ワールド以外の世界があって、そこにだって興味を持たなくてはいけないし、閉じこもっちゃいけないと、意識的に忘れる努力をしていた。
そうすれば、一過性の熱病できっと終わる、「あの頃の私、恥ずかしかったね」で終わる。
そう思ってた。
確かに熱病は終わって、村上春樹のことなんかすっかり忘れて生きていけてる。
でもだからこそ、たまにその言葉を読んだときに、いかに自分が村上春樹を心の底から愛しているかを痛感して愕然とする。
いまだに彼は特別で、それはなんかもう「神の声を聞いた」みたいな感じで、啓示みたいというか、、ほかの人の言葉よりももっと300mくらい上から聞こえてきたかのような感じで、心への響き方、その浸透力、破壊力が別格なのである。
松ぼっくりに火がつくような、昔の熱情を思い出すというのではない。
現在進行形で、今の私が、毎回毎回、新しい素敵なものに出会ったかのように、感動するのである。
その感動というのも、扇情的なものではなくて、心の深いところが反応する。
はっとさせられるのだが、そこには知的な側面と、詩的な側面が両方あるので、心が掴まれてしまうし、人生や世界のとても美しい部分や瞬間を見せてもらえた気持ちになる。
彼はそういうものを捉えるのがとてもうまく、そしてそれを他の人に分け与える手段にも長けているのだろう。
そしてそのレベルというのがもう、世界的なレベルで別格で、魔法使いレベルなのだろう。
昔、私が村上春樹が好きだったのとはまた違う。
当時はもって、自己愛的で感傷的で、恋のようだった。
でも今は恋じゃない。
愛なんだと思う。
子どもの寝顔を見ることで、明日また頑張る力がもらえる、みたいな。
私には子どもがいないので、もちろん実際そんな状態になったことはないけれども、村上春樹の言葉というのは私にとってそういうものだ。
毎回が、静かだけれども、とてもとても特別で、独立した感動体験。
毎回この人の言葉に反応するので、それをして、「この人が好き」「この人のファン」という、あたかも継続的な状態であるかのように表現するけど、本当にすごいなと思う。
たとえば私がミニトマトが好きだとして、一口ごとに、一粒ごとに、「ああなんて美味しい食べ物なんだ」と、毎回いちいち感動している状況が、一生続いているような状態である。
なんて村上春樹がすごいのだろうか。
そしてなんて、私は果報者なのだろうか。
毎回そんなに幸せになれるものにすでに出会っているなんて、私は幸せが約束された女じゃないか。
しかもそれはjust words.
物質ではないから、逃げることも消えることも死ぬこともない。
でしょ?
もちろん、新鮮味がなくなることはあるだろうし、自分の成長や変化で興味が失せたり、感じ方が変わることはあるだろう。
1Q84を読んだとき、「なんだこのクソ」と思って、がっかりして、何も感じなくて、途中で読むのを放棄して、もはや自分は村上春樹のファンではないし、ファンだというのが恥ずかしいとすら思った。
実際、村上春樹のファンです、というのはちょっと恥ずかしいことでもある。
いまだにファンというのも自分の成長が止まっているみたいでもある。
でも今は違うと思う。
誇ることでもないけど、恥じることでもない。
だって村上春樹は別格なのだ。
魔法使いレベルだから、万人に通じる言葉で、万人に通じる物語を描くことができる。
それはもう脳に直接語りかけることができるテレパシー能力者みたいなものなんだと思う。
どんな人にも届いちゃうのだ、基本的に。
どんな人、、というのはつまり、幅広い文化圏の、幅広い年齢層、幅広い感受性、ということだ。
つまりファッション界の無印良品みたいなものだ。
とてもおしゃれな人も、まあまあおしゃれな人も、おしゃれといえないような人も、評価する。
だから村上春樹が好きだと言ったところで、誰もが同じように好きなわけではないのだろう。
そしてシンプルがウリの無印良品がすごいところだって、実はシンプルなところにあるわけじゃないだろう。
無印良品のすごいところは、「それでもなお洗練されている」ところにある。
もちろん洗練を極めればシンプルに行き着くので、シンプルと洗練は相反する要素ではないが、幅広い世代や幅広い趣向、幅広い生活シーンにマッチする汎用性の高さや低コストを維持しつつ、そのなかで最大限の洗練を追求しているのは、実はなかなかに芸術的なバランス感覚が必要な仕事だと思う。
たとえばジーンズが、そのちょっとしたカットの差で、大きな価値の差が生まれてくるように、ただのシンプルなラインと言ったところで、シンプルを極めたら洗練されるとは限らない。
というわけで、村上春樹は芸術的な料理人にも近いのかもしれない。
身近にある食材で、ハッとする旨さの料理を作る。
毎回、その料理に感動する。
やっぱり料理上手な奥さんをもらった旦那さんはとても幸せですね。
今夜も経済難や病苦に犯されることなく、無事にごはんを食べられる幸せ。
それに加えて、最愛の家族と食卓を囲めるという幸せ。
さらにその食材の美味しさを引き立てる料理を食べられる幸せって、天からの恵み、つまり生かされている幸せをも感じられてしまうという。
えーっと、なんか今日の私は何かに感応して、すこしおかしくなっていますが、 まあいいんじゃない。
人は30代後半になっても、ティーンエイジャーみたいな心持ちになることもあるということですよ。
そして、つまりなんだ。
村上春樹、愛してる、ということ。
そして、それはすなわち、私は幸せだということ。
そして、村上春樹の使う魔法を私は使えないけど、類似の魔法というのは世の中にいっぱいあって、それは料理上手な奥さんとか、いつも素敵な冗談をいう同僚とか、いつもふつうなのに素敵な着こなしの女友達とかね。。
なんか泣けてきた。
私、死ぬのかな?
世界が美しく見えてきましたよ。
まあそれはいいとして、 素敵な仕事をしたいですね。
仕事って、マネタイズされるものじゃなくてもね。
この世界で生きて、誰かや何かと関わっていくなかで、あっと知的で詩的な感動を与えらえる瞬間こそが、生きていく喜びなんじゃないだろうか。
きっと私にも、そういうちっさい何かがあるはずだ。
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