東日本大震災から5年経って東京都民だった私が思うこと。 [ニュース雑感]
私は当時、東京都民だったので、震災との距離感は微妙である。
震度5を体感し自室の本棚が崩れ落ち、コンビニから物が消えたり、計画停電だったりを経験したので、他人事ではないけれども、 もちろん津波や放射能汚染の被災者ではないし、実家が東北にあるわけでもなく、知人がなくなったわけでもない。
だから、まあ被災者とそれ以外、とわけたときに、それ以外のなかでは割と身近に震災を感じた部類なのかな。
とはいえ、結局いちばん震災を追体験したのは、テレビ報道である。
あのテレビ報道が全国でなされていたことを考えると、被災者以外の、日本国内にいる人は全員が同様に震災を追体験したともいえるかもしれない。
いつもとは全然違う揺れを実感した地域は、そのぶん、臨場感が多少違うくらいのもので。
ただ、海外で日本の報道を見てスカイプをしてきた海外在住の友達に「信じられないよね〜」と言われて、いや全然温度感が違うなと感じた。
私にとっては今まさにリアルタイムで起こってきていることであって、信じられない?何が?って感じだった。
仕方がないことだが、外国にいて、外国の報道しか見ていない彼女にとっては、日本国内のもしくは東京の温度感が全然わからなかったのだろう。
しかし、あのテレビ報道を見ていたときの、フラストレーションは今でも忘れない。
特に最初の3日間、命が助かるかを分けると言われる72時間の間、今こうしている間にも助かる命があるかもしれないのに、ただこうやって泣きながらぼーっとテレビを見つめていることしかできない無能な自分を呪わなかった人はいるのだろうか。
そのフラストレーションが強烈すぎて、私は外国人に「そういえば福島っていまどうなん?」的な質問をされるたびに、エモーショナルになって、涙がこぼれるのを耐えるために視線をそむけてばかりだった。
しかしつい最近聞かれたときに、はじめてエモーショナルにならない自分を実感した。
5年ってそういう時間なんだな、と思った。
もちろん部外者である私にとっての5年であって、当事者にとっては違うだろう。
でも、今回5周年で色々な記事を読んでいくうちに、またちょいとエモーショナルになった。
つまり、私が感情的にならなくなったのは、ただ単に震災の記事や記憶に接する機会が減って、記憶が風化しただけなのかもしれない。
さて、しかし最初の72時間のフラストレーションに関しては、ある意味仕方がない。
でももうひとつ、鮮烈に脳裏に刻まれているテレビ報道がある。
震災からしばらく経ってからだと思う。
それは福島の乳牛農家を取材したもので、この先どうなるか見通しが全く立たないけれども、とりあえず乳を絞ってやらないといけないからと、毎日乳を絞ってはすべて廃棄している人の報道だった。
きっと彼はこの手塩にかけてきた乳牛たちを、近いうちにすべて殺さなくはならないだろう。
乳も売れない、肉も売れない牛たちに、先のめどもたたないままに、いたずらに餌を与えていく余裕は、失業者状態の彼にとってあるわけがない。
それがどんなに辛いだろうかと考えたら、想像を超えるものがあった。
津波で壊れた街は「また立てればいい」と思えるけれど、放射能で汚染された街はそういうわけにいかない。
その上、風評被害や差別といった二次被害まで。
実際、最近の記事で、福島のレタス農家の方が、震災後に絶望して自殺されたという話を読んだ。
一次産業に従事している人が多い福島で、こういった話がどれだけあったのだろうか。
そして、その状況が5年経った今も、たいして改善されていないことに、あらためて深刻さを思い知った。
もちろん「すべてを失った」というもっとも絶望的な瞬間は過ぎているだろう。
でも、そこからカラ元気を出して、何くそ、とやってきたものの、先が見えない状況が続けば、徐々に希望を失っていく。。
そういう危険は、すでに震災1年後、2年後でも言われていたけれど、今もその危険の最中に普通にあるのではないかと思った。
人によって、目安は違うだろうから。
なかには、「最初の5年はきついだろう。仕方がない。でも5年経ったころには。。」と思ってた人もいるかもしれない。
もちろん人は慣れる動物だから、もう慣れて今更大丈夫かもしれないけれど。
でも異常な状況に人々が慣れてしまうというのも、とても恐ろしいことだ。
ちなみにこんな記事を読んだ。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2723628.html
震災では、いまだに全国で2561人の行方がわかっていません。
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201603/20160310_13028.html
宮城県内での潜水による捜索は震災後494回目。
寺門嘉之潜水班長は「ご家族の皆さんにとっては『もうここには何もない』と分かることも大切だ。要望があれば、これからも続けていく」と話した。
外側の人間と、当事者との間の温度差を感じた。
彼らは日々の生活を頑張りながらも、こころの一部はまだ全然そこにあって、5年経った今も、まだまだ遺体を探している。
そうだったんだ、そうだよね、ごめんね、という気分になる。
まだ全然終わってないのに、勝手に、終わってずいぶん経ったような気になっててごめんね、というか。
きっと私が外部の人間ゆえの、見えてなさなのだろうな、と思った。
現地では多分、もちろんみんな知っていることなのだろう。
動き出している部分もあるけれど、まだまだ何も変わらない全く終わっていない部分もあることを。
あらためて、とくに福島の人々の状況改善のために、一体自分に何ができるのか、もっと調べたり考えたりする時間を持ちたいなと思いました。
そして、調べて考えて何かやった気になるのではなくて、小さいことでも何か確実に行動に結びつけたいと思います。
結局募金とかになってしまうのかもしれないけれど、それでもまずはそれだけでもね。
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