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「向いていない」という言葉の破壊力。 [生活雑感]

今日、帰宅したら、あまりにもお腹が張っていて苦しかったため、ベッドに横になったところ、うっかり眠ってしまった。

もちろんメイクなんて落としてない。

夜中2時頃、ハッと目覚め、洗面所に行って顔を洗い歯を磨き、シャワーを浴びたけど、もちろんクソ怠いので、やる気はゼロ。

さらに、またやってしまった・・的な自己嫌悪もあり、「そもそも私にはスキンケアとか洗顔とか向いてないんだよ(だからする必要ない、むしろすべきじゃないんだよ)」と寝ぼけながらに真剣に思った。

そこで、そんな自分にさすがにビビった。眠気の奥でまだ残っている理性が「それは危険思想だな」と警笛を鳴らす。

面倒くさいことを放棄するテイのよい口実でしかないのは、頭がクリアになればハッキリする。

そもそも洗顔とか歯磨きを向いてないっていって一切放棄とか、生きる上で間違っているのはなんとなく私にだって判断出来る。

もちろん念入りなスキンケアとかになると、確かに向いてる向いてないってあるかもしれないんだから、洗顔とか歯磨きだって、向いてる向いてないってあるかもしれない。。。

あるかもしれないけど、向いてなくてもやらなくちゃいけないことだし、、、そもそも向いてるとか考えるべきことじゃなく、やるべきことなんだと思う。

ただ、向いていないことは断捨離していくっていう生き方も確かにあるわけで、この切り分けラインを何処に置くかって結構重要な問題だと思った。

最近、私はこの危険思想に結構とらわれがちなのだ。

海外生活が向いてないタイプなんじゃないか。

この仕事向いてないんじゃないか。

結婚とか、向いてない。

恋愛とかがそもそも向いてない。 

コミュニケーションがそもそも向いてないタイプなんだよ。

そもそも生きるのが向いてないんだよ。

 

ーーーーーそうなんです、そこに行き着くおぞましさ。

 

「洗顔が向いてない」「歯磨きが向いてない」とか思ってしまう自分に落とし込めば、向いてないことじゃなくて、向いてないという口実を作ってめんどくさいことから逃げようとする自分に問題があることは容易にわかるよね、俺!

と、自分に説教してみるも。。

向いてないことからは早期撤退!無理に無駄に頑張らない!というのも、確かに自分としてここ数年掲げているのである。

 

俺は楽なほうに逃げたんじゃないか? 

という疑惑を自分に持ってしまう状態っていうのは、自信喪失につがなる気がする。

いや感情に負けたんじゃなくて、合理的な戦略をとっただけなんだよっていうのを、常に理性的な自分が第三者的にチェックしないといけない気がする。。

とはいえ、とにかく逃げちゃいけない、的な精神論で、気持ちや直感を封じ込め頑張り過ぎても、人生楽しいか?って外国人がビックリする、日本人特有の生真面目なアレになっちゃうんでね。

ちなみに海外暮らしをしていると、生真面目さは日本人の武器で美徳なんだということを実感として教えらたけれども、もっと人生いい加減に楽しんでもいいんだよ!!っていうことも実感として教えて貰えた気もするの。

とことん遊ぶところ、とことんガチでやるところ、、要はバランスで、日本人でも外国人でも出来ている人は元々出来ているんだけどね。

要はどこでどれを発揮するかがセンスなんだろうな。 

 

というわけで、今ここで自分の状況を整理。

生きるのが向いてない、洗顔は磨きが向いてない、はもちろん却下。

コミュニケーションが向いてない、却下だ。

どんなにコミュニケーション力がなかろうと、コミュニケーションを否定するのは生きるのを否定するようなものだ。

ただ、コミュニケーション、コミュニケーションとばかり謳うのも、コミュニケーション力にコンプレックスを感じている自分としては気が重く、生きる事自体が困難な気持ちになってしまう。

いつからこうなったのかなあ。

昔はコミュニケーション力、なんて言葉は意識してなかったし、その上で、コミュニケーション力あると思ってた。

だから生きるのは楽しかった。

まずコミュニケーション力がないって思うのを辞めよう。

大丈夫、あたしは国語が得意だったんだから、ちゃんと相手の言いたい事を理解できるし、相手が解るように発信することだって出来る。

ただ単にシャイになってしまっているだけで、それはなぜかというと、コミュニケーション苦手っていう意識が培われてしまったからだ。

なんで苦手と思うようになったかは、もちろん原因がある。ここで詳細は省くけど。

さらに今は英語でやらなくちゃいけないっていうのが、ハードルをあげている。

でも、コミュニケーション自体が苦手と思わないことだな。 

 

イヤなことはやらんでいい。

この思想も破壊力ある。向いてないことは辞める、と通ずる部分がある。

イヤなことでもやるべきことはやらなきゃいけないし、やる必要がないことはやらんでいい。

結局はそういうことなわけで、「やるべきか」は、常に理性がしっかりと判断しないといけないんだよね。

どんなに「考えるな。感じろ」だとしても。

ただ考えて生きる人と、感じて生きる人、どちらが生きやすいのかといったら、確実に後者だろう。

世界というものとシンクロしながら生きて行けるんだと思う。

直感は意外と正しいというしね。

でも、やっぱり人間は感じる葦じゃなくて、考える葦なんだよ。

んーーー。

わからなくなったら、自分の洋服選びに立ち戻ろう、これは唯一私が信頼している私。

たぶん洋服選びだって、間違えてることあるんだと思うけど、ただ自分が後悔しないのだ。

自己満足のための行為で、完全に自己満足が出来ている。

直感に従って満足することもあれば、熟考を重ねて満足に至ることもある。

つまりは運転みたいなものか。

飛ばすとき、最新の注意を払って進むとき。

どちらも運転の醍醐味であり、楽しさなのである。

そっか。

そういう運転を楽しむべし、だな。俺。。

生きるのはすなわち運転で。

 

でも、結局コミュニケーションに問題を感じるって、ただ単に自分が好かれていないだけなのかもしれない。

このあいだヘアスタイルを変えただけで、ものすごく知らない人にモテた一日があり、そう思った。

モテている時は、自分のコミュニケーションのあらなんか気にならないものなんだよね。

コミュニケーション力に起因させるのは正しい。

だって自分より不器量な人気者なんて、世の中に五万といる。

でもね、コミュニケーション力に起因させることによって生きているのが辛くなるなら、いっそ安易でも外見のせいにしてしまったほうがまだ楽なんじゃないか、私の場合。

あと一時間、じゃあ何が向いてるんだよっ!!と考えながら、寝ます。 


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