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忘れられた巨人 カズオ・イシグロ [読書メモ]


忘れられた巨人

忘れられた巨人

  • 作者: カズオ イシグロ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2015/05/01
  • メディア: 単行本
 
 
 
 
 




カズオ・イシグロの2015年の新刊「忘れられた巨人」を読了。

はやく読みたい読みたいと思いながら、なかなか手をつける暇がなかったが、手をつけてからは私にしてはさっさと読み終えることができたと思う。

読んでいる最中はなんどかパウロ・コエーリョを読んでいる錯覚に襲われた。

アルケミストとか第五の山とかといったような、何かに導かれて旅をしながら悟りを得ていくような古代風の物語は、まさにパウロ・コエーリョっぽいのである。

逆にいえば、カズオ・イシグロっぽくはないおとぎ話風。
そう、カズオ・イシグロのはじめてのファンタジーらしいのだが、カズオ・イシグロ自身がインタビューで単なるファンタジー小説だと思ってほしくない、みたいな発言をして、ファンタジーを見下しているのか?と少々問題になったらしい。

それはさておき、たしかにファンタジーという舞台設定だけれども、伝えたいことはもう実にカズオ・イシグロであることは、読み終わってびっくりするほどにカズオ・イシグロ。

パウロ・コエーリョだったら、個人的な生き方の悟りを得るところで終わるところが、カズオ・イシグロの場合は、またいつものせつない、いまは喪われたイノセントな時代へのノスタルジックな愛と、時代や世界状況など個人ではどうすることもできない影響力に飲み込まれるなかで、それではどう生きるのが正しかったのか?と様々な選択をした人々のそれぞれの葛藤を描いて、何が正しい在り方なのか問う社会的な姿勢。

さて、忘れられた巨人という題名まんまなんだけど、けっこう進撃の巨人を思わせるところがあった。
舞台設定が古代風というところもあるし、世界が謎に包まれていて、少しずつ解き明かされていき、そこには記憶の消滅も関係しているところ。
そして進撃の巨人を読んでいるときには、ある日突然、強大な力によって町や村が殺戮され、親兄弟や仲間を失い自らが戦士となって勝ち目があるかわからない戦いに挑んでいく
そういう世界が、今この現代にもあることを思い至っていた。

中東、シリア、イスラム国あたりのことを考えたのは言うまでもない。

忘れられた巨人でもそうだった。
日本と韓国の従軍慰安婦問題。
日本と中国の南京大虐殺問題。
パレスチナ問題。

すべての隣り合う民族同士で、諍いと協調、ときに征服、そして復讐といった歴史が繰り返されてきたんだろうな。

そしてそれは何も民族同士だけではなく、夫婦といった個人同士だってそうなのだ。

どんなに基本的にしっかり愛し合っている強い絆がある夫婦だとしても、小さな不信、小さな不親切や意地悪といったレベルから、小さな仕返し、裏切り、不和となり、傷つき悲しみ相手を疎ましく思ったり、憎く思った歴史を抱えていたりする。

このお話の登場人物、ブリトン人の老人アクセル、ブリトン人の老騎士ガウェイン、サクソン人の戦士ウェイン、サクソン人の少年エドウィンはみんなしっかりした人物である。

紳士というか、誰もバカでも卑怯でも臆病でもなく、自分の立場で良かれと思ってまっとうしたらそうなったというような行動をとる。

それにとにもかくにも冒険譚としても面白く、ワクワクと先を読ませる。
ハリー・ポッターとか指輪物語みたいな感じだろう(どっちもそこまでよく知らないけど)。

とはいえ、この古代風物語ゆえか、登場人物に老人が多いゆえか、どうでもいい台詞まわしみたいなのが多いのはちょっと疲れる。

私はやっぱり「私を離さないで」のほうが好き。

とはいえ、この話の最後のほうでサクソン人の戦士がしている話はとても怖い。
まるでISの戦士の育成のようだ。
ただ漠然と失踪した母を慕っている少年に、母をさらった相手を憎め、ひいてはその相手の属する民族全体を憎め、冷酷になって復讐せよと教育しようという話だ。

殺戮の歴史を封印し、なかったことにすることで平和を維持するのか。
すべての歴史を自覚し、憎しみを決して忘れずに、償わせ、償い以上に今度は自らが征服してやる、という流れに乗るのか。

カズオ・イシグロ的にはどちらも行き過ぎだ、という意見なのだろう。

つまり、最後に老夫婦が行き着いた場所のように、黒い影もまた愛情全体の一部であること、ゆるやかにしか治らないが、傷はやがて癒えること、、、だから過去の忌まわしい出来事を直視しても大丈夫だ、直視すべきだ、とも取れるし、多少ぼんやりと忘れてきたくらいでちょうどよかったんじゃないか、とも取れる。

やっぱりテーマはカズオ・イシグロだ。
無知だった、何も知らずイノセントだったけれど、幸せだった時代を思い、情報を隠され守られている世界のスウィートさを描きつつも、どこかそれがやはり異常で奇矯で、真実は明かされるべきだと思いつつも、その真実は残酷で知らないほうが良かったのかもしれないとも思う。

まあでも結局は、知って良かったね、という話なのだ。
とりあえず今回は。
世界は残酷だけど、残酷なりに我々はそこに解決を探っていけるだろう、というような。

さて自分に引き寄せて考えてみる。
最近、幸せでいる方法として、断捨離だの、シンプルライフだのが叫ばれている。
もともと仏教の教えでもそうだ。
欲をかくな、足るを知れ、人と比較するな。

情報がいくらでも手に入るような現代、上には上がいることが明快で、欲望や向上心を持とうと際限なくおもえるが、それが人々を苦しめていると。

だが、知りたくないことは見ない、聞かないで済ます都合のいい閉じた生き方も自己欺瞞でしかないし、井の中の蛙として満足すること、無知な昔の生き方で満足することへの後退ではないかと私は常々思っていた。

ポジティブシンキングだってそうだ。
脳や体を効率的に動かすのに効果的だということで、取り入れてはいるが、一歩間違えたらこれだって自己欺瞞だ。

というわけで、やっぱりバランスなんだろうと思う。

仏教では、恨みはとにかく手放せと教える。
恨みや怒りを抱え続けるかぎり、自分が囚われていて不幸だから。

だが、精神病理的には、怒りをかかえているのに、それを自分で認めずに、ないものとして扱う、つまり抑圧したら病む。
吐き出すプロセスはやはり必要。

自分の心に正直に生きるのはとても大切だし、それはとても幸せに近い生き方だろうけど、社会的責任を放棄したり、人に迷惑をかけていい免罪符にはならない。

しっかり活動し、しっかり休むのが健康的なのと一緒。
一週間のうち、五日間くらい働いて、二日間くらい休むバランスや、一日のうち、8時間くらい働いて8時間くらい寝てるバランスが人間にとってちょうどいい、一番生産性が高いバランスなんだと、きっと長い歴史のなかで人は気づいたんだろう。

そんな具合で、怒りや憎しみ、自己実現、すべてにおいていい塩梅のバランスがあるように思うし、そのバランスをとるのに生来的なものはもちろん、理性もとっても役に立つ。

たとえば他人と比較しない、ということ。
これだって、下手をしたら自己欺瞞だけど、理性でバランスがわかる。
比較するだけ時間の無駄だったり、気分が悪くなって生産性が下がるだけなら、無駄だから比較しなければいいが、それによってモチベーションが高まったり、新しい学びや発見があるならどんどん比較すればよい。

私は今とても幸せで心穏やかに暮らしているけれど、それはなぜかといったら、ひとつは他人と比較していないですむ生活をしているからだと思う。

そのおかげで、健康的にノーストレスですくすくとのびのびと生活できていたら、QOLは高いだろう。

でも、ビジネスのように考えてみたらすぐわかることだけど、やっぱり世界に対してオープンで、情報に対して開かれてもいるべきで、そういう場合には、多少の劣等感を刺激されてストレスを感じようとも、やはり時間の無駄にならない程度には比較するべきなのだ。


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