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職業としての小説家 村上春樹 [読書メモ]


職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

  • 作者: 村上春樹
  • 出版社/メーカー: スイッチパブリッシング
  • 発売日: 2015/09/10
  • メディア: ハードカバー
    職業としての小説家 (新潮文庫)

    職業としての小説家 (新潮文庫)

    • 作者: 村上 春樹
    • 出版社/メーカー: 新潮社
    • 発売日: 2016/09/28
    • メディア: 文庫


 
そんなに一生懸命に読む本でもなかろうと、まあ暇な時にでも読もうかー・・・なんて思ってしまいこんでいたようで、思ってもみないところから発見されてびっくり。
 
忘れ去られるところだった。。
というわけで読む。
 
これが結構、真摯な語り口なので、一人の割と成功した人の生き方として、とても参考になる感じだった。
 
だけど、誰かに求められたわけでもなく、村上春樹が自主的に書き溜めていたもの、でもって講演でもないんだけど、あえて講演口調にしてみたっていうところがちょっと気持ち悪いなと思った。
 
こういうのって、言い訳や自慢、自己弁護してしまいがちで気恥ずかしいし、たとえそのつもりがなかったとしても結果的にそう見えてしまうから・・という理由で講演はしなかったということなんだけど、まさにその通り!
 
講演しなくても出版している時点で、結果的にそういう匂いがしちゃうのよねー。
 
もちろんノーベル賞が取れなくてあーだこーだと色々と噂をされたりということもあるだろうし、自分としての小説家としてのスタンスをちゃんと自分の口で表明しておきたいんだという気持ちはよくわかる。
 
だいたい芥川賞を取れなかったということで、随分あーだこーだ言われた過去があるらしく、それに対して「そんなこと全然気にしてないんだってばよー」ということが力強く書かれていて、わかった、わかったから・・って感じだった。
 
まあなので、ここへきてまたノーベル賞・・となると、こうしてこういう本を出しておきたくなる気持ちもわかるけどね。
 
さて、でも結果的に自己弁護のようにも見えてしまうというだけで、内容的には本当に正直で真摯なんじゃないだろうかと思う。
 
とてもへえって思ったのは、やっぱり夢を叶える人というのは、相当にしぶとくてタフだということだ。
 
それなりのことをやっている。
 
あの文体を生み出すのに、英語で書いて日本語に訳すというところから入ったとか、海外マーケットには実は自分から売り込んでいったとか。
 
野心なんてなかった風のことを言いつつ、結構淡々ととことん、やるべきことをやっているのである。
 
さらにこれは前々から知っていたことだけど、特別な英語教育を受けていない普通の高校生が洋書をサラサラ読めるようになるっていうのも、かなりのタフさとしぶとさの証だよね。。
 
というわけで、やっぱりこの人、すごいんだなーと思った。
そういうフィジカルなタフさみたいなもの。
集中力というか、オタク的な熱中力みたいなもの、そしてしかもそれを長い期間持続させられるパワーがある。
 
ー目標を旗印として掲げられたのは、僕にとって善きことでした。
 
印象に残ったのは、さいごの方のこの言葉かな。
何かしら自分にとっても励まされる気になった。
幾つになっても、何かしらのフロンティアに挑もうという気概をもてること、目標を掲げられること、それ自体が素晴らしいことだと。
 
まあそうかもね。
 
あとは「そうだ、小説を書こう」という啓示を受けたという話を読んだのは、これが初めてではないけれど、そういう啓示みたいなものや、ある種の確信、それからまたセレンディピティ的な、不思議な出来事、、そういうものに実際に導かれてきたという話。
 
村上作品の中では、不思議な非現実的なことは起きるけど、実際村上春樹もなんとも説明がつかない不思議なことを人生で何回か経験してきているからだ、とどこかで読んだけど、本当にそうなんだなーと思った。
 
私自身は若い頃に、確信めいた感覚を何度か人生の結構重大な局面で抱いたけど、それが全部外れてきているので、なんかもうどうしていいかわからない、、何を信じていいかわからない、、という人である。
 
ただ最近、ちょっとした漫画を読んで、その確信は実は当たっていたのに、どこかで逃げたんだよ、、みたいな話があって、まあ確かにそういう考え方もあるなと思う。
 
どこか弱いところがあって、チャンスを活かしきれなかったけど、やはりそれは気持ちを強く持てば捕まえられるような惜しいあとちょっとのチャンスだったのは間違いなかったのかもしれないし、方向性的には正しかったのかもしれないな、と。
 
ただ若い頃の私は人一倍自信がなくて臆病で、それでも人一倍自意識過剰で自負心もあったから、7段の跳び箱にチャレンジして失敗して骨折する、みたいなことが怖かった。
 
まあそんな感じで人の人生は変わる。
ここぞというところで決めてきた人たちを私は知っている。
 
ここぞというところで、いつも決めて来れなかった私。
そういう自分の人生の側面を久しぶりに思い出した。
そうだった、私の若い頃の自分といえば、そういう人だった。
 
あれから歳をとって、特にそんな風に自分を捉えなくなっていたし、、まあそんな過去にとらわれなくなったことはとてもいいことなんだろうけど。
 
私にもそんな風に、自分の人生を捉えるような「確信」という揺るがない「これだ」っていう感覚が訪れたこともあったんだっけね。
今は確信に正直なのかな?
 
やっぱり確信と、左脳的な打算が戦ってるな。
でもそこで確信に流れない、、それに納得しない、やっぱり違うという決断をしてきたのが私という人間。
 
と、話はそれましたが。。。
 
不思議体験、、論理では説明がつかない経験を何回かしているからこそ、村上春樹的には、あんな時に理不尽なファンタジー設定を物語に組み込んでも、でも世界ってそういうものでしょって感じで納得いく感じを作りあげられるのかもねー。
 
私は本当に、論理で説明できないような不思議体験なんてしたことないからなー・・・。
しいていえば、一年前に亡くなった叔父が突然夢に鮮明に現れたことくらい。
 
普段親戚の夢なんか全然見ないし、叔父のことも全然その頃に考えていたわけではないのに。
 
 
あとは「批判が納得いかなくても、とにかく批判された箇所は書き直す」というのは参考になるなと思った。
 
「その批判が的外れに思えたにしろ、何かしらスムーズにいってない、うまくない箇所だからこそ受ける批判であるのであって、批判を真に受けてその通りに直す必要はないが、書き直した方が結果的によくなる。」
 
ということらしい。
これは小説だけじゃなくても、仕事でもプライベートでも何にでも言えるんじゃないかしら。
 
相手あってのもの、大衆というか受け手あってのものの場合、やっぱり客観的な感覚というのを無視するわけにはいかないので、そこは大切にしないと、結局自分の存在意義すらなくなるというね。
 
村上春樹は、猫的人間だといい、やりたいことはとことんやるけど、興味が向かないことは身を入れてできないというけど、そのやりたいことを突き詰めるにあたっては、結構合理的、論理的に道を開いていっており、受け入れられるための努力を惜しまないところ、ちゃんと受け手に合わせようとしているところがあるのが、さすが大衆作家たる所以なんだろうな。 
 
さすがです。
 
でも、村上春樹のいうように、これはあくまで彼が獲得したやり方であり、文体である。
 
人間は皆それぞれ、自分にあった文体、やり方を自分で模索して獲得しなくてはならないのよね。
人生しかりだね。
 
 
  


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