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わたしたちが孤児だったころ [読書メモ]

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワ・ノヴェルズ)

  • 作者: カズオ イシグロ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2001/04
  • メディア: 単行本






カズオ・イシグロの2作目を読んだ。

異国かぶれ気味の今読むと、よけいに面白い。

この人のメインテーマはやはり、「子供時代」のようだ。

幼いころに疎開先の上海で父母が失踪したが、財産には恵まれており、

帰国したイギリスでちょっとした探偵として成功した青年の謎解きの話が、

途中で一転して、グロイ戦争描写と、グロイ真実の話になる。

しかしながら、そのグロイ中でも、主人公の叔父の告白は異様とさえいえる。

そんな告白を、人はするだろうか。

する必要があるのだろうか。

その部分だけが、必然性がないような気がして異様なものとして、映った。

だけど本当にこういう話はあることなのかもしれない。

上海に住む、知性も志も行いも立派な美しいイギリス人女性というのが、ここでの主人公の母親の立ち位置だが、

ようするに高値の花である女性、、昔でいえば、姫様みたいな立ち居地の女性が、

後ろ盾やらといった権力をなくしたとたんに、男たちのゆがんだ欲望の犠牲にされることは

考えてみたら昔からありそうな話だ。

そしてまた、後半のグロイ現実と対比をなす形で、前半は、甘くて平和な子供時代が描写される。

この退屈なくらいの、どうでもいい日常描写が、何もないこと=平和なことだということを

改めて痛感させられる。

スタンド・バイ・ミーがまぶしいように。

子供にとってみたらちょっとしたあまずっぱい冒険の思い出だけど、

大人になってみたらかわいい子供時代の思い出みたいな。

その思い出の、感情の機微が細かく描写されてる感は、「わたしを離さないで」に

通じるものがある。

子供ならではの、人種を超えた友情もとてもいい。

アジア人の子供とヨーロッパ人の子供と、どちらが恵まれているのか、

彼らは論争したりするのだが、そんなこと、大人が素直にできるとは思えない。

だが、大人になった彼らのたどる運命には、属する国というのものが大きな意味を持ってくる。

でも、彼らのふるさとは、属する国ではなく、租界先の上海にある。

でももはや、それは残っていない。

ふるさとがもはやない、というのも、「わたしを離さないで」と同じテーマだ。

「ふるさとがない」感というのは、ハーフの人とか、異国で外国人として育った人からは

聞いたことがある話だ。

日本人だけど、日本で育ってないから、結局、育った国が祖国みたいなものだけど、

育った国では外国人として扱われて・・・ みたいな話をどこかで聞いたことがある。

そんなものかな・・・ と思っていたけど、なるほど、3週間たっぷりストレンジャー気分を

味わった今なら、前よりも理解できる気がする。

生粋の日本人として日本で生まれ育つことは、つまんないありふれたことのように感じていたけど、

それはそれでとても幸せなことなのだと、初めて感じた気がする。

つまり、私が異国に出かけて、異国でストレンジャーとして差別にあったとしても、
自分が自分で当たり前な国、最後には当たり前に帰れる国、つまり
ふるさとというものが、この世にきちんとあれば、強くいられるような気がする。

まあでも結局、それはそれで幻想であって、帰ってみたら、浦島太郎気分を味わうことになるんだろうけどね。

小野田少尉の気持ちがわかる気がするよ。

自分の知ってる日本はもうすでになかったっていうね。
もしくは、外国暮らしが長いから、結局のところ、日本住まいは窮屈だったみたいなね。

だから結局、外国住まいを選択するんだけど、でもやっぱり自分は日本人であり、
最終的には日本に恩返しをしたいから、日本と海外を行ったりきたりしながら、
小野田自然塾を開催している小野田さんの感じが、なんとなくわかる。

あと、沖縄にあこがれて移住してくる沖縄県外の人が、
現実の沖縄に失望して、郷に、たとえば東京に帰ると
それはそれで東京のペースにはもうついていけなくなっていて、
どっちつかずな感じで、結局またまた
沖縄に戻ってくるという話も聞いたことがある。

私は旅行中に、日本に帰りたい!と思っていたわけではないけど、
帰ってはや4、5日たつのに、毎晩、海外にいて、どうやって次の
目的地まで移動するのか(日本に帰るのか)、そのために手配しなくちゃいけないことは何か、
そしてそれをなんと言葉で言い表すのか考えている、、という夢ばかり見る。

で、朝になって、「あ!もう日本にいる。もう移動しなくていいんだ」とホッとする。
若干、トラウマになってんじゃねーか、と思うけど、
だからといって日本に帰ってきて、「帰ってきた~」という感じがあったかというと、
別に全然なかったわけで。

最近やっと日本にいることに違和感がなくなってきたけれど、
日本は日本で、しょっぱいなあ~と思う。

日本語が通じるのは、ストレスがなくて便利だと思う部分ももちろんあるけど、
だからといって、気持ちまでダイレクトに全部通じ合えるのかといったら
そういうわけでもない。

結局同じだ。

言葉が通じる分、そして慣習もわかっている分、
逆に最低限のコミュニケーションで済ますでしょう。

海外だから、言葉がたどたどしい分、全身全霊でコミュニケーションを
はかってきていたわけで、それに比べると、言葉が通じたところで
うすいコミュニケーションだ。

もちろん、詳細のことを話し合うことはできるんだけど、
実際は面倒くさくてそんなに詳細を話さなかったりするし、
質問の仕方が悪ければ、言葉がわかってたって、
正確なボールが帰ってこないのは日本も同じだし、
結局のところ、伝わってる度合いはそんなにかわんないのなーって
思った。

もちろん、美術館で、絵画の解説を、英語で聞いてから日本語で聞いたら、
英語で理解できてたのは10パーセントくらいで、びっくりしたこともあったさ。

実際の会話で、わかった気になって、OK!って言ったら、
YesなのかNoなのか?と再度聞かれて、実は全然わかってなかったこともあった。

でも、ブラックスワンのあらすじを帰ってきてから読んで、意外とわかってたんだな、とも思った。

ようするに子供みたいだよね。。

子供ってどこまで事情がわかってんだか、わからないじゃない。
たしかに難しい言葉の意味とかはわからなくて、すっかり誤解してる部分もあったりするんだけど、
実は結構、人の心の機微を察していて、びっくりさせられたりする、そういう感じかな。

すみません、話がそれました。

結局のところ、住む土地が変えてみて結局失望するというのは、
仕事をやめたいやめたいと思っていた人間が、無職になったとたんに
はたらける幸せを痛感しだすのとも、通じるよね。

土地や国の違いは、会社を代わって、それぞれによしあしがあるのとも通じます。

まあ、でも、そんななかでも、自分にとって一番生き易い場所は、絶対にある。
それは事実だし、とても考えて楽しいことだよなあ。

ちなみに、この本より「わたしを離さないで」 のほうが、ずっと完成度が高く感じました。
構成は似てなくもないんだけど、これがトマトカレーだとしたら、「わたしを離さないで」はカレートマト!?みたいな。
ちょっと違うかな・・・ でも、おんなじような材料を使ってるのに、だんぜんそぎ落とされてスマートに、
かつ凡庸なところから、なかなかないスーパーなところに進化したっていう感じでしょうかね。

それから、この小説内で、印象に残ったくだりは、ノスタルジックに浸ることはいいことだと、
主人公の幼馴染アキラが語るくだり。

なぜなら、世界が美しかったことを思い出せて、それを守るためにがんばれるから、的なことを言っていた。

なるほど。

そんな考え方は私はしたことがなかったけど、そういう考え方もあるのかもしれない。



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