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わたしを離さないで Never Let Me Go [読書メモ]

久しぶりに、すごい小説を読んだ。
昔は本といえば、ほぼ純文学、そして小説しか読まなかったが、ここのところビジネス書の類が多かったので、
ちゃんとした小説を読むのは久々で、読み始めるのに、一呼吸必要だった。

しかも、この小説は、どこかで書評を読んだかなんかして、図書館に予約してあったのだが、
なぜ読みたかったのかも忘れ、読みたい気持ちも忘れたころに、お知らせがきて借りれたものだから、
なおさら、手に取るまでは、めんどくさかった。

だが、読み始めてすぐ、もう1ページ目から、すらすらと物語にひきこまれていき、これはいけそうだと思った。
読みやすい文体にして、引き込まれる世界観。
そして、その引き込まれ方は、徐々に増し、最後まで夢中で読んだ。
物語が終わってしまうのが、どこか寂しいような感じになる、そこまでの世界観を感じさせる作品を読んだのは何時振りだろう。
しかしながら、結末を、謎を知りたいということのほうが大きい作品ではあるのだが。
そして、読み終わってからも、すごく自分にとって大事な人と出会って、そして別れたような、余韻が残る作品だった。

だからこそ、日常のあれやこれやにまぎれて、その気持ちを忘れてしまう前に、
こうして感想をどうしても書き留めておきたい気持ちになったのだろう。

まず世界観はもちろん衝撃的なのだが、奇をてらった作品ではない。
世界観だけならば、そういうSFはありがちだとさえ言えるかもしれない。

社会的なテーマというのもある。

だけど、この作品のすごいところ、そして私の好きなところは、やはり人間がその存在の意味不明さやら
残酷さ、自分勝手さなどを含めて、きわめて正確に緻密に、でも結局は素敵に描かれているところだと思う。

そして背景に、きわめて異常な世界を用意し、
「1920年代のアメリカ」とか、「1990年代の日本」とか、そういう時代背景に頼らなかったところが好きだ。

だからこそ、読者は、異常な世界と、普遍的な人間の感情の営みとのギャップで、
人間をその汚さ含めていとおしい存在に思えるのだろう。

物語の半分くらいは、あるまっとうな施設で育てられた、おもに3人の子供たちの子供時代の物語が占める。
大人向けに、感情の機微の細かいところまで突っ込んだハリー・ポッターみたいなもんだ。

虚勢に嫉妬、苛立ち、意地悪・・・ そんな汚い感情も含めながら、でも結局は子供らしい
かわいくて素直な部分、本質的なやさしい部分なども含めて、繊細に描かれていく。

でもところどころに、いつでも不穏な空気と、どこか奇妙な感じのする謎があって、
その気配を読者はずっと感じながら、彼らの成長を見守っていく。

そしてその謎が明らかになり、彼らが最終的に死ぬところまで、物語は続いていく。

ようするに彼らの一生は、私たちの一生のデフォルメのようなものだ。
もちろん、根本的な前提条件が全然ちがくて、それをテーマにしているとも言えるけど、
結局のところ、何のために生きてるのか、その意味不明さにかけては一緒だ。

ネタが少しだけばれちゃうけど、彼らは繁殖しない。
そして、彼らには、将来の職業を選ぶ自由はない。
生まれながらにして、使命が決まっている。
私たちは繁殖するし、自分の将来の職業を選べる。
そこが大きく違うけど、でも、繁殖のために、そして働くために私たちが生きているのなら、
なぜ私たちは、芸術に心を打たれて泣いたりするのだろうか?ということと一緒だ。

愛って何かとか、何のために生きているのか、とか。
結局のところ、死ぬまで、もしくは死んでもよくわからないだろうと思う。

なんとなく分かったりはするんだろうけど、意味があるにしては理不尽極まりない、
理解に苦しむシステムだと思うことも、人生にはいっぱいある。

でも私たちは生きていく。
もちろん、愛や夢、希望があれば、それだけでほかに何もなくても生きていくだろうけど、
そのすべてがなくても、ささやかな生活の楽しみや、他人から寄せられる期待にこたえたいという思い、
何も知らなくて無邪気だった子供時代のあたたかい思い出が胸にあるから、意味不明でも生きていける。

この小説で一番、心に残ったのは、「子供時代」ということだ。
大人になった彼らに、園長先生的な先生が言う言葉。

「真実を正確に教えなかった。それは認める。だましたとも言える。
 だが、それはあなたたちを庇護したことであり、だからこそ、あなたたちには子供時代が存在したのです。」

あと、この小説で気に入ったエピソード。

キャシーがトミー(キャシーの幼馴染にして恋人)と最期のお別れをするときに、
トミーが、幼いころにサッカーで、ゴールを決めたあと、仲間のところに駆け戻るときに、
水を蹴散らせて走るところをいつも空想していた、という打ちあけ話をするところ。

それから、キャシーとトミーが、キャシーが子供時代に失くしたテープを、大きくなってから二人で探しに行くシーン。
それまで青春時代の人間関係のいざこざで、自尊心を傷つけられたりしてむしゃくしゃしていた二人が、
そのことを決めてからは、すべての心の雲が晴れて、楽しさと笑いだけが残る、子供のようにはしゃいだ気持ちになったという話。

キャシーがトミーを思い出すとき、きっとこの2つのエピソードは頻繁に思い出して、くすっと笑い、暖かい気持ちが胸に残るだろう。
そしてそういうことが、生きていくことの大きな糧になるだろう。

私も、死ぬ間際にもしも猶予があったら、そういうエピソードを親しい人に語りたいな、と思う。
自分を思い出すときに、いつもそんなことを思いだしてもらえたら、きっといい。

子供時代っていったい何なんだろう。
30過ぎて、とてもまれにだけど、とても楽しい気持ちになるときもある。
そういうとき、私は、子供時代みたいな気分だな、と思う。

ひとつ子供時代とは何ぞや、ということに無理やり結論を出すならば。
それはそれで、真実だということだよね、多分。
庇護され、何も本当のことはわかっちゃいない。
でも嘘の中で見た夢 というんではなく、それはそれで真実なのだと思う。

そう思う根拠は。
それは小説の中にも出てくるが、子供も「心の奥底ではもう知ってた」のではないか、ということ。
そして、大人である私が、けっきょくだますほうに意識的に加担する立場になるであろうことからだ。
子供であるうちは、だまされるほうとして、大人になったら、だますほうとして。
結局、その世界の構築に一生かかわり続ける以上、それは真実なのだと思う。
そして何より、大人になったところで、結局のところ、根っこにいるのは子供時代の感覚だからだろう。

知ることと信じることの折り合いのつけ方は、きっといつまでも難しい。

でも、この小説の救われるところは、ある意味完璧な愛が書かれているところであり、
作者がきっと、完璧な愛を信じているだろうところだ。

この小説のなかで、愛がこんなにきちんと書かれていなかったら、
面白いけれど虚無的な物語になってしまうけど、
愛がきちんと書かれているから、せつないラブストーリーになっている。

多分この話は、恋じゃなくて愛なんだよね。
男の子と女の子の、恋じゃなくて愛情の機微を、こんな風に細かく書いた作品はあまり見たことがないから、
なんだかとてもいいものを見せてもらった気がした。

主人公のキャシーが、結構雄雄しくて、ぶりっ子じゃないところが、またいいんだと思う。
男性作家が書いたのに、女子が気持ち悪くなく書かれているのには、びっくりだ。
とくに女児の心の動きを理解しているのはすごいと思う。

この小説をきっかけに、久しぶりに物語に浸る楽しさを思い出した。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

  • 作者: カズオ・イシグロ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2008/08/22
  • メディア: 文庫


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